OVER 1st mov.


「目覚めた時――という表現は合わないかもしれないわね。……そう、私が自分を認識した時、そこは闇だったわ。何も見えない、何も聞こえない、何かに触れることもできない。それができる身体はなかったの。すべてのシステムを遮断した船に移されて、地中に埋められたことさえ、私にはわからなかった。こんな、ことになるなんて……思わなかったのに……」
 イーリスの言葉尻は途切れがちになっていた。たとえ今はその声が機械によって造られたものだとしても、元の人間らしい感情の起伏が、そこから読み取れた。フィオが彼女の第一印象として人間臭さを感じたのも、当然のことだった。
「そうだろうね」
 対する、彼の返答は短い。とはいえ、これ以上言葉が見つからない。彼はもとより慰めの言葉など持ち合わせてはいなかったのだ。
「……でも、声も出せず、助けを求めることもできなかった私を、あなたが見つけてくれた時は本当に嬉しかったのよ」
 彼女は臆面もなく心からの礼を口にする。

 どこか、不思議な気分だった。彼女が心身ともにイーリスだった頃は、思ったことを素直に言えるような性質ではなかった。「意地っ張りだね」と、ウェイン氏に苦笑混じりに評されたほどなのだ。だが、今はなぜか感情を曲げずに伝えることが心地よかった。
 なぜだろう。彼女は思う。
 意識が温もりから引き剥がされた瞬間に、心もまた変わってしまったのだろうか。だがよく考えてみれば、自らを構成するすべての機能が入れ替わってしまったのだ。人間だった頃の自分と繋ぐのは、ただ記憶だけ。
 どくん、とありもしない心臓が跳ねる思いがした。それは、意識に刻み込まれた生命の記憶。――だが、それさえも危うい。

「どうした? イーリス」
 長く沈黙する彼女に不審を感じたのか、フィオが珍しく作業の手を止めた。
「――ううん。それよりフィオは今、何をしているの?」
 自らの曖昧な返事をも打ち消すように、彼女は逆に問い返す。
「もうすぐ終わる。――ああ、できた」
 そう呟いて、フィオはキーをはじいた。
 すると、管制コンピュータのモニターの一つに光が点り、そこに画像を映し出した。
「え……」
 それきり、声が出せない。音声システムに異常を来したわけではない。声を出そうにも言うべき言葉が見つからなかったのだ。
 モニターに映し出された人物。生身の人間をそのまま投影したかのような、精緻な映像。小さく尖った鼻梁。驚いたようにじっと見返す、色素の薄い瞳。長い睫毛も、その瞬きさえも忠実に再現してみせる。そして、彼女の発する声に合わせて上下する、ほんのりと色づいた唇――

「これは……私……?」
 画像の少女は呆然と目を見開いている。その少女に向かって、フィオは軽く声をかける。
「自分の顔だろう?」
「それは、そうだけど」
 もちろん、それは記憶の中の見慣れた顔と一致する。だが、彼女の言いたいのはそんなことではない。
「幸い、凍結したままの乗員のファイルが失われずに残っていたんだ。そこから君のデータを取り出して、画面に再現してみたんだよ。顔を見ずに話すというのも、案外落ち着かないものだからね」
 対話時のカメラは、主にモニター画面の奥に設置されているものが使われるようになっていた。イーリスの、ちょうど目の高さ。これで本当に「向き合って」対話することができる。今までの、天井からの俯瞰映像とは異なって。
 一瞬、彼女は人間に戻ったような錯覚に陥った。
「ありがとう、フィオ……本当に……」
 今にも泣き出しそうな笑顔で、彼女は告げた。システムを復旧させるのなら、そして早急に火星を発つのなら、まずは航行機能から手をつけなければならないはずだ。そもそも対話システムの仮想映像など、普段は滅多に使われない。たとえ、それがなくても船の運航には何の支障もないだろう。にも関わらず、フィオは他の何よりもそれを優先させた。彼女が人間だった証を、この世に形としてとどめおいてくれたのだった。

 無言の優しさに包まれたような気がして、画面の中の笑顔も自然とほころんだ。そして、そのさまを別の角度から見ている自分に気づき、対話用以外のカメラをすべて切った。いつの間にかそんなこともできるようになっていた。これで自分の好きなように好きなところを覗くことができる。だが、対話する時はただ一つのカメラだけを使おうと彼女は思った。一度に何か所をも視認するなど、人間にはできない芸当だ。そして、そんな能力に慣れてしまっては、人間だった頃の自分を忘れてしまう、そんな気がしてならなかったのだ。
 フィオは再び黙々と作業を始めた。てきぱきと動く彼の姿をたった一つの角度から見つめながら、イーリスはふと思った。
 自分とは、いったいどこからどこまでを言うのだろう。少なくとも、肉体のどこか一部でも指すのなら、彼女は今、「自分」ではない。しかし、彼女が届けるはずだったデータによれば、自我は記憶の上に立脚するという。
 でも、と彼女は考える。記憶は、大脳にのみ宿るものだろうか。取り損ねた記憶が、失った身体に残されてはいないだろうか。もし、そうならば――

(私は、誰)

 自分は、以前の自分未満の、異なった存在とでもいうのだろうか――
 そんな恐ろしい考えを打ち消すように、彼女は思案をやめた。疑念を払うように振るべき首も頭も今はないので、思考を追い出し、忘れるよう努めるしかない。
 フィオは相変わらずメインコンピュータの前で作業を続けている。――彼女を完全な船にするために。だが、そうして精巧な機械へと近づくにつれ、彼女は人間から遠ざかっているのかもしれないのだ。
 作業は止まない。その単調な機械音が彼女の不安を募らせているとも知らず。


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