2nd movement 銀色の少女
-silvery girl-



「フィオの馬鹿、フィオの冷血漢、フィオの分からず屋、フィオの人でなし、フィオの……」
 文句を並べるうちに、エトはたちまち悪口の種が尽きてしまった。もともと語彙が少ないこともあるが、何より相手の性質とその形容がそぐわない。今、彼が罵ったうちの半分ですら当たってはいないのだ。
 言いながら何だか虚しくなって、エトは口をつぐむと、ぼんやり空を見上げた。彼の故郷よりもずっと近く、ずっと大きな太陽が光を降り注いでいる。殺伐とした、火星の街に。だが、この惑星に差し込む陽光は、地球のように温かくも生命を育むこともなかった。

 今、彼ら人間がこの赤い不毛の大地に根を張り、息づくことができるのは、二重にこしらえた街壁に守られているためだ。壁とはいっても透明の、天井まで包んだ巨大なテント型のもので、街全体を内外壁が覆っている。そのため、出入り口にはAIの管理する門が設けられ、厳重に警備されている。本来ならよそ者の、しかも密航者であるエトが忍び込むなど、容易なことではない。だが、正式な派遣員であるイーリスの認識コードを借り受けたお陰で、それも可能となったのだ。
 それでも一応、念のためにとあまり使われない民間用の宇宙港を通って、彼は街の内部に侵入を果たした。そこで人目につかないように防護服―とは彼の持ち物である旧式の与圧服ではなく、船に常備されている予備の新式軽量型だが―を脱ぎ去ったエトは、全身に柔らかな風を感じた。火星の風といっても、もちろんそれは自然の生み出す大気の流れではない。実際の火星の風など、直に肌に触れるわけにはいかないのだから。
 脱いだ防護服を小さく折り畳むと、エトはバッグの中にしまった。頭部も重いヘルメットではなく特殊樹脂製のごく薄い透明シートで、気圧差で膨らませているため、携帯用としては最適のデザインなのだ。
 火星の街に足を踏み入れたものの、彼の頭はまだ墓場にいた時から完全に切り替わってはいなかった。歩きながらフィオの悪口を並べ立てたのもその名残だろう。

「街へ行く」
 と彼が言い出したのは、無論イーリスの身体を奪ったAIを探すためだったが、そればかりが理由ではない。フィオが算出した一か月、彼は船の修理にかかりきりになるだろう。だが、その間エトは墓場にいてもすることがない。一日、船内でフィオの仕事ぶりを見て、彼はその場を離れることに決めた。一言でいってしまえば、いたたまれなかったのだ。
 フィオは全身全霊を込めて復旧作業に没頭していて、同行者の少年どころではないし、イーリスはそんなフィオに突っかかるような態度を示しながらも、実のところかなり頼りきりになっている。エトの役目も居場所もそこにはない。それが嫌で、彼は子供さながら拗ねて食ってかかって飛び出したのだ。
 自分は役立たずではない。そのことを証明するには、自力でハーピーを探し出すしかない。だが――

 エトはもたげた首をめぐらして、街並を見回した。区画整理された地上街は、上空から眺めればチェス盤のように整然としている。しかし、実際に中に入ってみると、その外観と実情とのギャップに、訪う者は少なからず圧倒される。エトもその一人だった。
 完成当時は美しかったであろう街は、砂塵にまみれていた。
 どれだけ壁で防ごうとも、門の開閉の隙に、もしくは出入りした物の表面に付着して、微小な塵は街に侵入してきた。そのため、街全体が煤けた錆色に染められてしまっている。そして当然のこと、その塵は住民の気管や肺にも入り込む。
 赤熱病(レッド・フィーヴァ)の一因とされる代物だ。いまだ人の手の及ばぬ未開の荒野も、微生物によって汚染されている可能性が高い。特に極冠のドライアイスの氷の中では、なかなか死滅しない。そのうちに宇宙からたっぷり浴びせられる放射線により、変異を起こす。そんな正体不明のウィルスを媒介する毒塵が、砂嵐により運ばれるのだ。だから火星では砂の赤は不毛の色であり、死の色でもある。すでにその色に染まりつつあるこの街が、荒廃するのも無理のないことだろう。
 しかし、意外なことにこの街は広い。火星の北半球、ユートピアと呼ばれる平原に、人口調節のため建設された移住地だったのだが、人の増えるのにつれて区画を拡大せざるを得なかったのだ。

「この中からどうやって探せばいいんだよ……」
 呟いて途方に暮れる。現在、エトが詮方なくたたずむのはP‐15地区。三回目の拡張工事で建設された西端の区画だ。墓場に近く、人目につきにくい門も設けられている。恐らくハーピーも脱走後、真っ先にここを目指しただろうが、いかんせん情報が少なすぎる。
 フィオが他の重要なシステムを後回しにしてまで、イーリスの映像を再現させたことを知らないエトには、彼女自身の口述による身体的特徴だけが唯一の手がかりだった。
 十八歳。背中まで伸びた銀色の髪と、同色の瞳。それから身長を初めとする身体の数値データ。そして、イーリスという名。
 それだけ。たったそれだけで、この広い街から一人の人間を探し出そうというのは、無謀を通り越して愚行としか言いようがない。エトも多少は予想していたが、予想以上の厳しさだった。
 困っている少女を助けてやろうという義侠心もさることながら、ほとんどは子供染みた反発心の為せる業。彼は十六という実年齢にしては世慣れしていないこともあり、同行者兼保護者に言わせるところの「半人前」だった。しかし、ようやくにして頭が冷えた。もしくは直接、外気を肌にあてたのが幸いしたのかもしれない。
 取り敢えずはいったん引き上げて対策を練るべき。にも関わらず、止まったままの両足は向きを変えるのを躊躇した。

(――でも、戻ったってあいつに何て言えばいいんだよ)

 自分が癇癪を起こして飛び出した手前、そう簡単には帰りづらい。そもそもフィオは先に、探せるはずがないと断言していたではないか。
 無意識のうちに、足は墓場とは逆方向に向かって歩き始めていた。いや、むしろ奥底に抑圧された意識に従ったと言うべきか。とにかく、得るものなくすごすごと帰ることだけは避けたかった。エトは薄暮の街路を歩きながら、首を傾げた。広さから言っても表通りのはずなのだが、この閑散とした風景はどういうことだろう。
 火星で使える数少ない交通手段の地上車(ランドカー)や二輪車も、通る数はまばら。行き交う者もたまにいる程度で、時折目につくのは道端で物欲しそうに見上げてくる、ストリート・チルドレンと呼ばれる貧しい子供たち。また、もう少し年嵩だとストリート・ガールらしき女もいたが、エトをお子様と判断したらしく、声をかけられることはなかった。

 何がここまで荒廃させるのだろう。
 道には、細かい塵が一面に積もっている。振り返ると自分の足跡が一瞥できる。足を強く振り下ろせば赤茶けた砂煙が舞い上がる。まるで、このまま街全体が死の砂に呑まれてしまう、その前兆のように。
 夜が近づき、冷たい風が頬を撫でる。電力節約のため、人工的に調節されている温度は夜間、ぐっと下がる。とはいえ、それも街壁の外側に比べれば微々たるもの。
 地球時代から、「地球化(テラフォーミング)」と呼ばれる惑星の緑化については盛んに議論が進められていた。手始めに最も近い月面上で試験的に行われ、まずまずの成果を上げた。だからこそ、人々は火星に多大な期待を寄せていたのだ。火星には大気も氷もある。月よりもはるかに容易く改良できるだろう、と。
 だが、火星の地球化は失敗した。当時はまだ旧い航法が主流で、そのため輸送に時間がかかり、連絡も密に取れなかったということもある。だが、主な理由は、彼らが期待した火星のその条件にこそあった。熱を加えることで溶け出した極冠のドライアイスの氷が、二酸化炭素濃度をますます濃密にさせることになる。それを固定させる段階では逆に大気は薄くなり、結果として二酸化炭素の温室効果は低下し、温度は下がる。
 結局、堂々めぐりなのだ。
 こうして、現在の火星は人間が根を下ろす以前とほぼ同じ威容を保っている。要するに、彼らは緑化において匙を投げてしまったのだ。だから、ここでは人は地に潜り、囲いを作って小さな住処を設えなければ生きられない。まるで星が人間を拒んでいるかのようだ。

 ――だから、これが自然なのだろうか。

 火星の自然の一部を造り替えた人間が、その自然に呑まれてゆく、このことが。
 エトは、ふと故郷を思った。彼が生まれ育ったところは、これほどの苦難に喘いではいなかった。だが、その歴史は火星に比べてはるかに短い。もしくは、この先に荒廃が待ち受けているのかもしれないのだ。
 彼は暗み始めた空を見上げた。人の眼に映るはずのない遠い故郷を探している自分に気づき、かすかに自嘲する。

(――今さら、だよな)

 戻れないと気づいてから、人は過去を懐かしむ。たとえそれが古傷の疼くような思い出ばかりであったとしても。
 頭上では西から昇り始めたいびつな月が、故郷を捨てた少年を嘲笑うかのように、鈍い輝きを放ちながら見下ろしていた。