OVER 2nd mov.



 公園は、表通りを真っ直ぐ行ったところにあった。
 別段、そこを目指していたわけではない。ただ、墓場(グレイヴ)に戻りたくない一心で足を止めずにいたところ、たまたま行きあたっただけなのだ。深い意味などありはしない。
 この公園はモア・パークという。街がユートピア平原に建っていることから、その語源となった名著『ユートピア』の作者トマス・モアの名にちなんでつけられたのだ。しかし、この街も公園も理想郷からは程遠い。

 エトは視線だけを動かして辺りを見回した。木立ちは、まだかろうじて生き延びてはいるが、それは決して豊かな緑を呈してはいない。そのほとんどが地球の乾燥地帯の植物をベースとして、火星用に改良した品種ばかりなのだ。当然、街の内部は防護壁の外のような厳しい乾燥気候ではないが、それでもこうして根を張り、息づいているということは、それなりに適合していたのだろう。そして、その木々の根元やベンチに、無造作に寝転がる人々――地球時代から克服できず、今なお引きずっている問題だ。
 人口は飛躍的に増え続け、一世帯辺りの平均所得も伸びたが、同時に所得格差も広がる一方だったのだ。特に火星では、地上の移住民たちは都市では食べていけず、主に建設事業に従事することで生活を保障してもらおうと集まった者ばかりである。当然、所得は低いし、拡張工事も一段落した後は職にあぶれた。給付金も一時しのぎのものでしかなく、結局街には浮浪者が溢れ返ることとなってしまった。

 火星の公園は、あるいは人にとって住みよいところかもしれない。エトは観察しながら何となくそう感じた。もちろん様々な問題はあるだろうが、適合してしまえば生きられないわけではない。何しろ、街全体がすっぽりと巨大テントに覆われているのだ。気温も夜間は下げられるとはいえ、摂氏十度を下ることはない。暑すぎず、寒すぎず、眠るうちに凍え死ぬこともない。その上、雨を降らせる日は事前に知らされるので、その間だけどこかでしのげばよい。だからこそ、住む場所を求めてこれだけの人間が集まる。
 不意に、エトの目と耳にそれは飛び込んできた。それとも、視覚と聴覚がそこに引き寄せられていたのだろうか。

「おい、おまえ見かけない顔だな」
 耳にした時、どきりとした。自分に向けられたのかと思ったが、そうではなかった。
「タダで、断りもなくここを勝手に使えるとでも思ってんのかよ?」
 実に独自性のない因縁をつけられているのは、いまだ十代と思しき少女だった。周りを取り囲む柄の悪い男どもの間からその姿を見て、エトは驚いて目を凝らした。

(何だって若い女がこんなところに!?)

 いくら世間に疎いとはいえ、エトにもそれが異常な事態だということぐらいわかった。
 周りを見回しても、だいたいが中年層を軸とした男ばかりだ。そんなところに女が一人で参入すれば――どれだけ危険な目に遭うか、わかりそうなものなのだが。まるで我がことのように危機感を覚えたためだろうか、エトは少女から目を離せなくなってしまった。
「お金はありません」
 少女は怯えるどころか、やけに堂々と答えた。だが、それで連中が包囲を解くはずもない。むしろ興が湧いたらしく、肉食獣めいた目つきで少女を舐め回すように見やる。
「へえ、じゃあ金じゃなくてもいいけどよ」
 下卑た笑みと狂ったような奇声を上げて、男は少女に掴みかかった。支配欲があふれ出し、少女の華奢な身体をねじ伏せようとする。その瞬間、エトは飛び出していた。
「おい、おまえら、いい加減にしろよ!」
 叫んで、男どもの中に割って入った。これこそが、フィオの指摘する正義感の賜物だった。黙って見過ごすことなどできないと言って地上街にまで入り込んだのと、原理として何の変わりもない。だが、そういつも通用するものでもないのが現実の厳しさだ。
「何だ、てめえは? 邪魔すんじゃねえ!」
 恫喝されて、次の瞬間には天と地とが逆さになった。彼はあっという間に地を這わされてしまったのだ。しかもなお悪いことに、男たちの中であぶれた者が、彼に暴行を加えることで欝憤を晴らそうとしてきたのだ。逃げるすべもなく身を固くしたその時、
「うわあっ!」
 何となく情けない悲鳴を上げたのは、身の危険に晒されていたエトではない。
 彼らをかすめて地面を穿ったのは、一条の閃光。その放たれた先には少女がいた。
「その人を放してください。撃たれたくないのなら」
 口調は丁寧だが、その内容は物騒だ。狙点を男の胸に定めておいて、少女は命じた。
「何を、このアマ……っ」
 男は吠えたが、様にはならなかった。無言で放った少女のブラスターの光線が、二の腕の衣服と肉の一部を削ぎ取ったのだ。意味をなさない声を上げて、炭化した傷口を押さえ込むのは、情けないとしか言いようがない。
「撃つと警告したでしょう。もう一度言います、ここから消えなさい」
 一つ覚えのように呻き、ただ傷口を撫でる男の顔に、銃口を向ける。他の者たちも誰一人動けない。少女の覇気にすっかり呑まれてしまっている。
「あと五秒」
 四、三、二、と少女がカウントダウンを始めると、男たちは衝かれたように我に返り、慌てて踵を返して駆け出した。去り際の、畜生だの覚えてろだのという記憶に残りにくい捨て台詞は、負け犬ですら恥じ入りそうな情けない遠吠えだった。

 そして、情けないといえばひどく情けないのがエトだった。無理を承知で少女を助けようとしてやっぱり無理で、秒単位でノックアウトされているうちに、助ける予定の少女に助けられてしまったのだ。恥の重みで立ち上がれないというわけではないが、かなり意外な展開に呆気に取られてへたり込んでいると、少女のほうが口を開いた。
「助けようとしてくれて、ありがとう」
 助けてくれて、という常套句はこの場合正しくない。この辺、少女は文法に律儀だった。
「いや……俺なんて全然役に立たなかったし、礼なんてこっちが言わなきゃいけないよ」
 はは、という自嘲めいた照れ笑いは、沈黙の中に掻き消えた。
 あまりの情けなさに呆れられたのかとエトは思ったが、そうではなかった。うつむき加減だった少女の身体がぐらりと傾き、次の瞬間、完全に均衡を崩して倒れたのだ。
「えっ、あっ、おい!?」
 自分でも意味不明な感嘆詞を連発して、エトは大いに動揺しながら少女に駆け寄った。
 具合でも悪いのだろうか。それともやはり怖い思いをしていて、緊張の糸がふつりと切れたのだろうか――。彼の予想のうち、どちらかといえば前者のほうが該当した。それを知った時、彼は脱力した。というのも、
「ぐうう」
 という、誰でも聞き覚えのある音が、少女の腹部から威勢よく発せられたのだった。



「ここのところ、ずっと何も食べてなかったんです」
 エトに揺り動かされて、ようやく目を覚ました少女の第一声がこれだった。
 三日ほど前に全財産を引ったくられて以来、水だけでしのいできたのだという。そのため、エトはバッグから携帯食を出して分けてやった。よく見れば、暗がりでも彼女の顔が蒼ざめているのがわかる。凍えることはないとはいえ、空腹を抱えて屋外で寝起きすれば健康でいられるはずもないだろう。この時点で、エトはすでに見ず知らずの少女に感情移入してしまっていた。――もちろん、本人はまったく自覚してはいなかったのだが。
「でも、その銃だけは盗られずに済んだんだね」
 エトは少女がベルトに提げているブラスターを指した。
「その時は上着の内ポケットにしまっていたから……」
「そっか。でもさ、せっかく武器があるんだから、それに物を言わせれば食べ物ぐらい手に入りそうなのにね」
 あまり冗談にもならないようなことを口にした瞬間、彼は思いっきり冷たい目でにらみつけられた。
「そんなこと、できるはずがないでしょう。これは、あくまで護身用です」
 きっぱりそう告げる少女の口調は丁寧なままだった。だからこそ、いっそう冷ややかさを増し、エトは軽口をつぐんで肩をすくめた。この少女は可愛らしい外見とは裏腹に、ひどく生真面目で冗談など通じないのだろう。まるで女版のフィオみたいだ。そんなことを思いながら、彼は別のことを口にした。
「だったら、こんなところにいても仕方がないよ。路上の子供なんて、盗みでもしなきゃ生きていけないんだよ? 君には向いてない。どこか戻れるところはないの? 家は?」
「家は……ありません。もう、どこにも戻るところなんて……」
 少女はうつむいたまま、絞るように声を押し出した。その響きがあまりに切なくて、エトは、はっと胸を突かれる。

 ――故郷には戻らない。

 自らが択んだ道。あの時の自分と同じように、この少女もまた悲壮な思いを胸に抱いているのだろうか。
「あ……じゃあさ、管理局とか保安局とかに保護を頼んだほうがよくない? そうだよ、それがいい」
「できません」
「どうしてさ」
 間髪入れない即答に、さすがのエトも訝しむ。
 この時だった。彼に一抹の不安がよぎったのは。
「それは……この街には保護を受けるべき人がどれだけいると思うんですか? 来たり者の私に構ってくれるはずがないでしょう」
「来たり者、って、君は火星の住人じゃないの?」
「……ええ。生まれはここですけど」
 時とともに不安が膨らんでくる。

 ――なぜ。

 今まで気づかなかったのだろう。よくよく考えてみればブラスターは民間に出回るような代物ではない。一般的には実弾式の小口径のものが主流。それでさえ持たざる者は多い。エネルギー式のブラスターなど、高性能ゆえに高価で、滅多にお目にかかれないのだ。それを平然と持ち歩けるような人間が、なぜ帰る場所を持ちえない?
 明らかに公共機関を避けている。単に嫌いなだけか。食うや食わずどころか、水しか飲めずに健康を損なってまで? もしくは――後ろ暗いことがあるせいか。
 どうして見過ごしていたのだろう。その目にはずっと映っていたはずなのに。なぜ思考を放棄していられたのだろう。
 だが、わずかな違和感に気づいてしまった瞬間、不安は一気に増大して溢れ出す。

 ――落ち着け。まだ決まったわけじゃない。

「……とにかく、どこか泊まれるところへ行かないと。君には暖かいベッドと休める時間が必要だよ」
「泊まるって――あなたと、一緒に?」
「えっ? いや、違う、勘違いしないでくれよ。もちろん別々の部屋を取ってさ。数日くらいなら、その程度のお金はあるんだ」
 慌てたように弁明すると、少女は表情を和らげ、かすかな笑みをこぼした。
 その仕草があまりに人間らしくて、エトは自らの疑念を束の間、忘れそうになる。
「どうして、そんなに私に構うんです? 見ず知らずの相手になんて」
「……放っておけないんだよ」
 それは紛れもない事実だった。ただ違うのは、初めと今の、その動機。
 彼女を初めて見た時、なぜだか目が離せなかった。まるで視線を吸い取られているかのように。そして、彼女が窮地にいるのだと気づき、助けなければと思った。そんなことは安っぽい正義を振りかざすようなものだとどこかで知りながら、それでも止まらなかった。見捨てて、後で悔やむよりはいいと言い聞かせながら。

 だが、今は。

 彼女から離れてはならないと、自らの中で警鐘が鳴る。――恐らく、彼女が求めていたその人なのだから、と。
「他人にそこまで迷惑はかけられません。それに、もうすぐ夜が明けますから宿の心配もいらないでしょう」
 少女の言う通り、すでに朝がそこまで迫っていた。最も闇の濃くなる段階も過ぎ、東の空が次第に明るみ始めている。

 ――確かめなければ、と思う。

 しかし確かめて、予想が当たっていればと思うとなかなか切り出せない。それでも、確証のない不安を払拭するために、彼は慎重に口を開いた。
「……そういえば、まだ名前を聞いてなかったよね。僕はエト。――君は?」
 すると、ほんの一瞬だけ少女の瞳が大きく開かれた。そのわずかな変化に、エトは唇を噛む。

 ――駄目だ。

 言ってはいけない。そうしたら、きっと連れ戻さなければならないから。
 自分で訊きながらエトは返答を拒んでいた。だが口にした瞬間、すべては遅すぎたのだ。
「私は……イーリス」
 地平から姿を現した太陽が、朝の日差しを降り注ぐ。その光を受け、背にたなびく少女の髪は、銀。
 エトが目をつぶったのは、眩しさのためばかりではない。
 それは、彼が探し求めていたはずの、機械の意識を宿した銀色の少女だったのだ。