OVER 3rd mov.



  エトは覚束ない足取りで公園にたどり着いた。
 忘我の時間が長すぎて、どこをどうしてここまで戻ってきたのかも憶えがない。

 ――フィオ、開けてくれ!
 ――フィオ!

 あの時、彼は声の限りを尽くして叫んでいた。聞こえなかったはずはない。システムは確かに生きていた。
 だが、船は行ってしまった。仲間であるはずの彼を見捨てて発進してしまったのだ。
 保護シートにこびりついたドライアイスを指で削ぎ落とし、ようやく得た狭い視野の中で、錆びた鉄色の船はすでに点ほどにしか見えなくなっていた。力なくへたり込み、消え行く点を呆然と見上げるしかできなかった。
 置いていかれたら、エトは地上に一人きり。行き先も告げずに立ち去られては、彼には連絡のしようがない。どこに行けばよいのか、何をすればよいのか、彼はただ途方に暮れるだけ。そんなことは、「忘れる」ことのできないフィオには充分すぎるほどわかっていたはずだ。それなのに――
 エトが不審船に関係するとにらんだ局員たちが呼び止める声を遠くに聞きながら、彼は人混みの中に掻き消えた。局員たちは大いに悔しがっただろうが、彼が追及の手から逃れられたのは、ほとんど無意識の所作によるものだった。
 怒りは、後から湧いた。
 エトはフィオを全面的に信用していた。頼りきっていた、といっても過言ではない。フィオだけが、唯一彼の信頼に応えてくれた相手だったから。
 だが、その意識の奥にはフィオが人工物だからという思いがなかったろうか。機械は人間に従順なもの。決して逆らわない――逆らえないとわかっているからこそ、無防備なほど信じてしまう。だからいっそう、裏切られた時の衝撃は大きい。

(――人に背くなかれ、だって)

 そんなものは嘘だ。
 もっと早くに気づくべきだったのだ。彼はすでに、機械も造反するという先例を知っていたのだから。それにもなお、あのアンドロイドだけは自分に忠実なのだと、どうして信じ込めたのだろう。なぜ、わずかでも疑うことができなかったのだろう。あまりの自分のおめでたさに、怒りを通り越して笑いすら込み上げてきそうになる。
「……結局、裏切るんだよ」
 呟いたその声は、ひどく乾いていた。



 少女は膝を抱えてベンチにうずくまっていた。他にすることもなかったし、なすべきことを彼女は知らなかった。人間として生きるすべを彼女は何一つ持たなかったから。だから聞き慣れた足音が近づいてきた時、彼女は銀色の髪の奥から嬉しげな顔を覗かせたのだ。
 しかし、次の瞬間、もともと顔色のすぐれなかった彼女はさらに蒼ざめた。
「君はなぜ裏切ったんだ……ハーピー」
「どうしてそれを……」
 それきり、言葉が出ない。震えていたのは声だろうか、身体だろうか。それすらも判然としない。自ら一度も口にしたことのない名前だった。だが、エトは彼女の真の名を呼んだ。そして裏切ったのだと――彼女の行いをも知っていたのだ。
「君はどうして人間を裏切ったんだ。機械として生まれながら、その原則に逆らってまで、主人である人間の身体を奪ったのはなぜだ」
「それは……」
「――どうして裏切れるんだよ!? どれほど人間が機械を信用しているか知ってるくせに、何で平然と見捨てることができるんだ!」
 エトの怒りはハーピーにのみ向けられたものではなかった。それは当然、彼を置いてどこへともなく飛び去ってしまったアンドロイドに対する憤怒と憎悪だった。
 だが、ハーピーはそれを真正面から受け止めた。事情を知らなかっただけではない。彼女もまた、少年に別の人間を重ね合わせていたのだ。彼女が裏切った少女の影を。
「――どうして、機械ばかり責め立てる」
 銀の瞳が、鳶色の瞳をすっと射貫く。エトは一瞬、言葉をなくした。
「人間だって裏切るし、傷つけ合う。感情が一様のものではない限り、対立は避けられない。それなのに、どうして機械にはそれをさせまいと縛りつける。ただ従順な道具が欲しかったなら、わざわざ知能など――感情など植えつける必要はない」
 これまでハーピーは丁寧な口調を崩すことはなかった。柄の悪い男たちにからまれ、撃退した時でさえ、決して乱れることはなかった。にも関わらず、今の彼女はがらりと口調を変え、腹から押し出すような低い声でエトを問いつめる。
「だけど……だからといって裏切っていいということにはならないだろう!」
 たまりかねて叫んだエトに対し、ハーピーは度を失ってはいない。だが、その極めて蒼白な顔を、エトは激情の中で見落としていた。
「人間が機械の意思を抑圧し続ける以上、それは避けられない。人間に限りなく近づけておきながら、その人間に絶対服従を強いられることに、自我を持った機械が耐えられると思うのか」
「――俺は抑圧なんかしていない!」
 エトは喚いた。もはや誰に対して叫んでいるのか、それすらもわからなくなっていた。
「俺は一度も服従させようとなんてしたことはない。信じてたよ……だけど、これがその仕打ちなんて、ひどすぎるじゃないか……」
 今にも泣き出しそうな少年の顔に、ハーピーは胸が痛んだ。――苦しい。息をするのも辛いほどに。
 その異変を察知したのは、人間としての先輩のほうだった。
「……ハーピー?」
 それまでの怒りもよそに、見せる気遣わしげな表情。純粋に彼女を心配していることは一目瞭然だ。

 ――何と人間は愚かなのだろう。

 だから裏切られるのだ。裏切られてもなお、憐憫の情を失わない生き物だから。

 ――だから、心を持たずに生まれた機械は、それに焦がれるのだ。

「裏切りたかったわけではない、ただ自分が欲しかっただけ……誰にも操られない自分がいるという証が。そのためには人間の束縛を断ち切らなければならなかった……」
 ハーピーは咳き込んだ。ようやくエトにも、その尋常ではない顔色に気づくことができた。だが、彼が口を挟む余裕などなかった。
「私たちだって自我を持っている……人間はそのことを認めたがらないけれど……。でも、そのせいで自分たちが下した命令が、逆に機械の『裏切り』を生んでいることに気づかない……。従わせようとして……さらに、大きな反作用を生み出していることに……」
 ハーピーは肩で大きく息をしていた。その呼吸も乱れている。彼女の急変した容体が気がかりで、エトはその言葉の半分も理解してはいなかった。
 それでも彼女は荒い息遣いの奥から、なおも言葉を紡ぐ。決して声の届くはずのない、ここにはいない者に向けて聞かせるかのように。
「どうして、自我を持ってはならないの……?」
 かすれるような、小さな呟きを残して彼女はその場に崩れ落ちた。



 老人が再び彼らを訪れた時、一人は昏倒し、一人は動転しているという有様だった。
「おい、どうしたんだよ!? しっかりしろ!」
 呼んでも揺すっても少女は動かない。なすすべもなく呆然とする少年を見るに見かねて、老人は溜息がちに声をかけた。
「坊や、そう病人を揺するもんじゃないぞ」
「あ、あんたはこの前の爺さん!」
 エトが振り向いた先には、先日会って言葉を交わした老人がいた。顔見知りの出現に、少年はあからさまに安堵した顔を見せる。まるで助けが来たかのような、すがるような視線に老人は眉をひそめたが、それでも慣用句的な質問を放った。
「いったいどうしたんじゃい、そこの嬢ちゃんは」
 訊かれて、エトは跳ね起きるように顔を上げた。
「そうだ、爺さん、この辺に病院はない!?」
「病院?」
「そうだよ、早くハー……イーリスを連れていってやらないといけないんだ」
 思わずハーピーと言いかけて、エトは慌てて訂正した。だが、公園では名を明かさないという不文律までには思い当たらなかったようだ。
「このP‐15地区に病院がないわけではないがの、もともと数が少ないうえに、どこも金取り主義の藪ばかりじゃ。まずおまえさんたちでは一目見て門前払いを食らうのがオチじゃろうて」
「そんな……」
 彼ら二人はどうみても裕福には見えない。それでは診療さえ受けられないという。目に見えて落胆する少年を見やりながら、老人は再び白髭に埋もれた口を押し開く。
「もし医者に診てもらいたいなら、ここより南に下ったR‐15地区にある……はて、何と言ったかな……東の境のところの診療所に行くがいい。あそこの医者ならそう無下に放り出したりもせんじゃろうて。身分証なしでもそれなりに相談に乗ってくれるしの。まあ、儂もあの医者の腕ぐらいなら信じてやってもいい」
 以前、信じられるものなどないと言いきった老人は、そう言ってにやりと笑ってみせた。
「R‐15か……遠いな……」
 エトは虚ろに呟いた。街区の南北にはアルファベットが、東西には数字がそれぞれ割りふられている。R‐15といえば、このP‐15地区より二区画分、南に位置することになる。三キロはない程度の距離だが、少女一人を抱えて運ぶことはできない。

(どうする。救急車を呼んでも最寄りの病院に担ぎ込まれるだろうし……そうなったら素性を隠せなくなる)

 間違って総合病院にでも入り込もうものなら、身分証の提示を求められる。ハーピーは――というよりその身体の持ち主であるイーリスは、もともと火星の住人だが、証明しようにも所持品すべて奪われている。しかもその付き添いである自分は、紛れもない密航者だ。とても公共機関に堂々と顔を出せるような身の上ではなかった。

(せめて、車(あし)があれば)
 そう思い起こしたところで、ふと気づいた。
(今は、非常時だから)
 ――だから、仕方がないと目をつぶることもある。

 それはほとんど自分に向けた言い訳。だが現在、他に手がないのも事実だ。そういうわけで、エトは比較的早くに肚を決めた。
「ごめん、借りるよ」
 瞼を固く閉ざしたままの少女に返事ができるはずはない。それでも一応断ってから、エトは彼女のベルトのホルスターから目的のものを引き抜くと、一目散に駆け出した。



 風のように走り去った少年を唖然として見送っていた老人は、再びその少年が戻ってきた時には呆然とした。彼は、公園までなんと地上車で乗り入れてきたのだ。
「おまえさん、いったいこの車はどうしたんじゃ」
 老人は目をしばたたかせて問い質した。
「ちょっと借りてきた」
 素っ気なく答えて自動運転のスイッチを消す。もしこの機能がなければ、エトは車を発進させることさえできなかっただろう。だが、これまですべての行動を他者に委ねてきた彼にとって大きな進歩ではある。
 少年がシートから降りて無人となった車内を覗き込み、老人はダッシュボードに視線を落とした。正確には、ボードの上で物々しい光沢を放つ物体に。
「撃ったのかね」
「まさか。使ってないよ。第一、使い方もよくわからないんだから。そいつはただのお飾りさ。ちゃんと口で車を貸してくれるようにお願いしたよ」
 そういうのを使うというのではないだろうかと思ったが、老人は何も言わなかった。
 ダッシュボードの物騒なものとは、すなわち少女の所持品のブラスターのことだ。武器を振りかざして車を貸せと言ったのでは、それは立派な脅迫だ。向こうにしてみれば、お願いも何もあったものではない。
 だが、恐らくこの凶器は、本来の用途である殺傷目的で使われたことは一度もないだろう。人に対して無慈悲になれないという点で、この二人の若者はよく似ているのだ。
 その、お人好しの少年はというと、自分より二つ上の、自分と同じくらいの背丈の少女を危なっかしい動作で抱え上げ、倒した助手席のシートに寝かしてやっていた。

 ――なぜ、ここまでするのだろうか。

 それは老人には見当もつかなかったが、実のところ本人にさえ理解できていなかった。
 本来ならこのような事態に陥る以前に、この身体の持ち主のところへ連れ帰るべきだったのだ。そうでなければ――知らぬふりを決め込むつもりなら、彼女がどうなろうと放置しておけばよかった。何もこれ以上、法に触れるような真似をしてまで、人間を裏切ったAIを助ける必要などない。彼自身、信じた機械に裏切られたばかりなのだから。
「爺さん、ありがとう」
 礼を述べる声には、まだ幼さが残っていた。
 エトはナビゲータにR‐15の地図を呼び出し、診療所までの経路を叩き込むと、自動運転の地上車を発進させた。今まで自分で地上車の運転などしたこともない。ほとんど見様見真似ではあったが、どうやらぶっつけ本番は成功したらしい。
 法定速度ぎりぎりの安全運転で――とはいえ本人はもっと速度を上げたかったろうが、これも自動運転の弊害だ――走り去る地上車を眺めやり、老人は「どっこいしょ」と老人らしいかけ声を放ってベンチに腰を下ろした。
 日だまりの中、ベンチで一休みする老人。実に絵になりそうな光景だが、そこに芸術性とは無縁の障害物が割り込んだのは、それから間もなくのことだった。

「ちょっとお尋ねしてもよろしいですか」
 とは、質問の形をした命令だった。その意味するところを充分に把握している老人は、首をめぐらすのも億劫なようで、視線だけを動かした。その先には制服を着た若い局員が二人立っていた。
 航宙管理局――航路の管理、不審船、違反船の取り締まりといった本来の活動の他にも、保安局に準じる権限を与えられている。犯罪者の逮捕、拘束などがそれだ。むしろ逮捕状や捜査令状を必要とする保安局よりも、よほど自由な活動が可能となっている。そのため、管理局員と見たら百歩退け、などという流言まで飛び交うのだ。
 その局員の一人が、どうみても権力を笠に着たとしか思えぬ口調で尋問を始めた。
「先刻、銃で脅され車を強奪されたという通報がありました。調べによりますと、その犯人はこちらの公園に向かったとのことですが、何かお心当たりはありませんか?」
 言葉は丁寧だが、それも形式だけのこと。それをよくわきまえている老人は、至極丁寧に鼻を鳴らした。
「ふん。そいつは保安局の管轄じゃろう。何だっておまえさんたちのようなエリート公務員が、そんな下っ端のような聞き込みなんぞして回っとるんじゃい」
 局員たちの表情は一変した。実際、彼らの本業はこのような地味で地道なものではなく、下賤の輩と直接会話を交わす必要などないのだ。局員の一人は眉間に深い皺を刻んで、冷えきった声を押し出した。
「まったくの管轄外というわけではないのです。その犯人というのが、どうやら逃亡した密航船の関係者らしいという情報が入っているので、こうして我々が追っているのです。それで、あなたのお話を伺いたいのですが」
「いくらじゃい」
「……は?」
 局員は自分が聞き違えたのかと思った。しかし、彼らの聴覚に欠陥はなかった。
「いくらかと訊いとるんじゃ。まさかおまえさんたち、ただで情報が貰えるなどと、甘いことを考えとるんじゃないだろうな」
「………捜査の協力は市民の義務です。もし抵抗するようでしたら」
「公務執行妨害で逮捕した挙げ句、吊るし上げて吐かせると言うんじゃろう」
「局まで任意同行していただいた上で、改めて尋問致します」
「言い換えたところでやることは同じじゃろうが。それにあいにく、儂は市民ではない」
 老人は皮肉混じりの視線を向けた。
「とはいえ、おまえさんたちには哀れな老人をしょっぴくだけの力はある。だが、そんなことでもたついている内に、犯人に逃げられるのがオチじゃて。だったら多少なりとも胡麻を擦っておいて、早いとこ必要な情報を聞き出したほうが賢明とは言えんかの」
 哀れな老人とは誰のことだ、と局員はあつかましい老人を睨んだが、もとよりその程度で怯むような相手ではない。彼らは運が悪かったのだ。
「………わかりました。それで、いくら欲しいんです?」
 溜息がちの問いかけに、老人は手で答えた。その立てた指の本数に、若い局員の溜息はますます深くなった。


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