3rd movement 氷の浮島
-icy islet-




 太陽系第五惑星、木星。その周囲を公転する衛星のうち、人類史上、比較的早い段階に発見されたもの四つを発見者の名からガリレオ衛星と呼ぶ。内側からそれぞれイオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト。それら四衛星は現在、木星域の中でも重要な地位を占める。
 宙域開拓に伴い、他の衛星にも居住区が設けられ、またスペースコロニーも次々と建設されて、太陽系最大の衛星都市群を形成した。だが、その中でも特に大きな四つのガリレオ衛星は木星域開拓時から、その中核として君臨し続けていた。人口は全域のうち四衛星で約三十五パーセント、経常収支は常に黒字。四衛星の中心であるガニメデでは、平均所得が先年、太陽系最高額にまで上った。
 このような背景の中、フィオは生まれた。場所は四つのうち最小の衛星、エウロパ。人類がまだ直にその地に触れられず、遠望するよりなかった時代には、凍った地表の映像を指して「ひび割れた卵」のようだといわれたこともあった。エウロパの表面は氷に覆われている。初の有人探査メンバーの一人が、その姿を眼下に見下ろした時、「闇に浮かぶ氷の小島だ」という言葉を残している。
 フィオがその「氷の島」の研究室で初めて視認した人間の名をフレデリック・セーガンという。イオの工場から送られてきた身体に生命を吹き込んだのが、この博士だった。

「名前は、フィオにしよう。私の頭文字のFと、イオの名前を取って」
 身体と意識とをそれぞれ生み出した両親の名から、彼はそう呼ばれることになった。命名したセーガン博士は、大きな新生児にさらにこう付け加えた。
「私のことはフレッドと呼ぶように。ドクターはいらないし、姓だと堅苦しいからね」
 次第に他の人間とも接触し、様々な学習をするうちに、フィオはファーストネームの、しかも愛称で呼ばせるような博士はセーガン博士ぐらいのものだということを知った。同時に、その博士が相当な変わり者であることも。
 飛び級(スキップ)に飛び級を重ね、十代で博士号を取得するという経歴もさることながら、とりわけ変わっているのはその性質だった。偏屈な学者によくありがちな人嫌いではない。むしろ人好きが高じて、付き合いだの何だのと率先だって遊び回り、遊び呆け、仕事中には半眠状態、ということもしょっちゅうだった。だが、逆に公の場に出るのは極端に嫌い、講演会の依頼はすべて断るどころか、学会での発表すら渋るほどだった。

 その類まれな性質ゆえ、高い能力もほとんど持て余し気味で、結局エウロパの小さな研究所でひっそりと隠棲するというところに落ち着いた。あれだけ広げた交遊関係もそのうち途絶えたが、本人は特に気にするふうもなかった。かえって、人目につきにくい作業も憚りなくできるというメリットを喜んでいるらしかった。
 いつの間に貯め込んだものか、自らもかなりの資金を投じて彼が試みた研究対象は、アンドロイドだった。正確にいえばアンドロイドの教育だった。人間と機械との差をどれだけ縮められるか――それにのみ腐心していた、といっても過言ではないだろう。だから、
「できる限り人間のことを学びなさい。そして、できる限り人間に近づきなさい」
 と命じるのに何の矛盾も感じなかったのは、当然のことだった。しかも彼は、さらにこう付け加えたのだ。
「――そして、人間になりなさい」と。

 そのプログラムを実行することは当然、不可能だ。肉体的にはもちろんのこと、精神的にもその構造上、アンドロイドと人間とは相容れないものなのだから。
 ロボットは決して人間に逆らわない。絶対服従を前提としなければ、ロボットの製作はできないように決められている。そもそもロボットは、倫理上の問題から廃止された奴隷の代替品だ。人が人としてあるために欠かせない、「人権」を獲得しようなどと彼らは思わない。人に限りなく奉仕することだけが自らの存在意義なのだから。どれだけ人に似せて造られても、アンドロイドもまた同じ。
 そのような思考体系こそが、人間と以て非なるところなのだ。「人間」になるとは、予め組み込まれた枷を自ら壊すこと。しかし、それを実行しようとすればアンドロイドの人工知能は暴走し、人間でいうところの理性を失って、制御がきかなくなる。それでは、たとえ人間に逆らったとしても、決して理性の生物たる「人間」とは呼べない。

 つまるところ、セーガン博士は自分の生み出した人形に、矛盾した命令を与えたのだ。人間と外見上はまったく変わらないくせに、人間に無条件で唯々諾々と従うだけ。そんな個性も感情もない人形に――もしくはそれを生み出し利用するだけの人間世界そのものに、セーガン博士は嫌気が差していたのだろうか。
 そんなことはフィオにはわからない。人間でさえ他人の思考など読めないものが、アンドロイドである彼に理解できるはずもなかった。
「努力します」
 とだけ答えたフィオは、しかしまだこの時は何の矛盾も感じず、「人間」になろうと努めることに躊躇いもしなかった。「人間になれ」という命令を実行することが、己の拠って立つ「人に背くなかれ」という原則を覆すものだというにも関わらず。
 あるいは、その時からすでに彼の中で変質が始まっていたのかもしれなかった。



 フィオが生まれてから二年と半年が過ぎた。人間ならば二足歩行も板につき、語彙も増えてよく喋るようになるだけの歳月だ。その間にフィオは多くのことを学習した。さほど多くもない研究所内の人間と接触し、人間の思考、行動パターンを分析し、記憶していった。その中でも特に興味深い観察対象は、所内の施設の一人の少年。名をエトという。
 エトは観察していて飽きることのない、格好のモニターだった。彼はもう幼い子供という歳ではなかったが、決して大人とは呼べない、中途段階にあった。
 恐らくそのためだろう。幼児のように我を通すだけでもなく、成人――特に研究所の大人のように、建前という名の理性ばかりを表に出すわけでもない。この点ではセーガン博士も充分変わり種ではあるのだが、エトはそれともまた違う。
 気分にむらがあるのだ、とフィオは思った。エトという少年はその時々によって感情が大きく変化する。それに伴い表情も、声音も、態度も変わる。施設の外の世界を見たいと駄々をこね、それが聞き入れられずに拗ねて塞ぎ込んでいるかと思えば、寝て起きればけろりとして、いつものような笑顔を見せる。
 だが、一方で常に空虚を抱えている。窓から物憂げに遠い夜空を眺めやる、あの瞳がなぜか忘れられない。いつもは見せないだけに、寂しげな横顔は強烈な印象として残される。
 目まぐるしく移り変わる表情。それは掴み所のない鳶色の瞳によく似合っていた。
 そして、エトはすぐに何にでも感情移入する。人に、動物に、時には血の通わない物にさえ。当然、いつも傍にいたフィオにもよく懐いた。その正体が人間ではないともちろん知っていたのに。また、フィオもそんなエトにどこか親しみに似た感情を抱いていたのかもしれなかった。――まるで人間のように。

 そんなフィオの変化を、セーガン博士は察知していたのだろうか。もしかすると、それを試すための実験だったのかもしれない。
 セーガン博士は、フィオにこっそりと内部情報を漏らしたのだ。
「火星の脳科学研究チームが誇らしげに伝えてきたよ。どうやらこの分だと相当な研究成果を上げるらしい。これで、木星側のチームも触発されて、躍起になるだろうね。脳科学だけは火星より立ち後れているものだから、妙に競争意欲が旺盛だしなあ」
 そんなに熱くなって張り合う必要もないだろうに、とセーガン博士は嘆息した。
「脳? 触発って、また性懲りもなく試験管の中で脳組織を突き回すのか?」
「違うよ。今回の研究対象は脳という部品ではなくて、そこから生まれる意識についてなんだ。だから必要なのは脳細胞だけでなく、生身の人間だ。そして――恐らく、その実験には施設の子供が使われるだろう」
 それで充分だった。もし博士の行為が実験なのだとすれば、その結果は恐らく期待通りのものだったろう。フィオは博士から聞いた話をすべて、自分の意思でエトに教えたのだ。

 施設とはいうが、一般的な福祉事業とは何の関係もない。身寄りのない子供を引き取り、従順な研究員に育てることが目的だともいわれるが、真偽のほどは不明。だが、施設出身の研究メンバーが決して少なくないのは紛れもない事実だった。
 しかし、セーガン博士の所属する所は規模も小さく、中央からも遠い。そんな辺鄙なところに送られる子供たちは、素質なしとの烙印を捺された「落ちこぼれ」に過ぎない。そのほとんどが義務教育課程を終える年齢になると、わずかな祝い金とともに社会に放り出される。エトも、もうすぐそうなるはずだった。だが、長い間養ってやったのだからと、その前に利用される可能性は最も高かった。



「逃げよう」
 と、エトは決めた。もとより外科的手術を施す、生体実験のようなものではないとは知らされている。幼い頃から被験者にされるのは日常だったし、特に疑問も持たなかった。
 だが、こと「意識」となると、研究者側にも未知の領域だ。しかも彼らの目指すのは「意識を抽出すること」だという。もし失敗してしまったら――たとえ身体は無事であっても、「自分」が消えてしまう。
 拒む権利など端からない。彼らは無駄飯を食わせる気などさらさらないのだ。
 だから、逃げるしかない。そう決めた少年は、気心の知れたアンドロイドの同行を願った。もとより一人で逃げおおせるだけの力などない。フィオがいてこその脱出計画なのだ。
 そして、そのことはフィオを悩ませた。彼の主人はあくまでセーガン博士だ。博士が研究所に属する以上、たかが一人の子供の願いなど聞き入れられるはずがない。彼の構造上、すぐさま断るべきなのだ。にも関わらず、彼は迷っていた。自分でも驚いたことに。

 そんなフィオの変調の兆しを、セーガン博士は恐らく見越していたのだろう、
「フィオ。来週、払い下げのシャトルが第二格納庫に搬入されるそうだよ」
 出し抜けにそう告げた。真意を掴みきれず、戸惑うフィオをよそに博士は続ける。
「払い下げ、といってもポンコツの、ほとんど屑も同然のようなものだがね。一つや二つなくなったとして誰も気にも留めないだろうよ。ああ、屑といえば廃物積載船(ガベージ・シップ)の回収日はいつだったかな」
 わざとらしく首を廻らして、止めたところでフィオを見やる。自らが生命を吹き込み、育て上げた、我が子同然の人形を。――否、人形はすでに親の手を離れ、独り立ちしようとしている。
「フィオ、エトを頼むよ。あの子はまだ、守ってくれるものが必要なはずだから」
 それだけ言いおいて、セーガン博士は白衣を翻してその場を去った。本人が無頓着というよりものぐさなものだから、白衣はよれよれでちっとも様にはならない。洗濯はすべて家事用ロボットがこなすのだが、常にまとい、あまつさえ着たまま寝たりなどするものだから、生地がますます萎えてしまうのだ。
 いつもと変わらない、その背中。どう見ても頼りなげな風貌なのに、その暖かな懐は無限の奥行きを思わせる。シルエットでも、彼の周りだけはゆるやかな、温もりのある空気が漂っている。あまりにいつも通りで、フィオはわけもなく苦笑を漏らした。誰かがその様子を見ていたら、人間臭すぎる仕草に唖然としたかもしれない。
 フィオはその背中を見送り、見収めると、彼もまた踵を返して歩き始めた。彼の漆黒の、虹彩を持たない人工の瞳には、強い意志がたたえられている。
 彼は、すでに別離を心に決めていた。