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「ここ……は……?」
 昏倒していたハーピーが目を覚ました時、初めに視界に飛び込んできたのは、見慣れぬ光景だった。
「車の中だよ」
 隣の運転席では、エトがハンドルも握らずに座っている。その視線は真っ直ぐ正面を見据えたまま、動かない。
「どうして車に……どこへ行くつもりなのですか……?」
「病院」
「病院? なぜ!」
 ハーピーは思わず息苦しさも忘れて聞き返していた。
「なぜって……君がものすごく具合悪そうだからに決まってるだろ。熱はあるし動悸は激しいし、さっきまでは呼んでも意識がなかったんだよ。自分が倒れて気を失ってたの、わかってる?」
「それは、わかりますけど……でも、どうしてあなたが私を病院にわざわざ連れていくのです?」
 ハーピーの口調はまた元のような丁寧語に戻っていた。しかし、そんなことにはお構いなく、エトはふてくされたように投げやりな口ぶりで答える。
「じゃあ他に誰がいるって言うんだよ」
「それなら放っておけばよかったでしょう。あなたは私のことを知っていた……だから裏切ったと私を責めたのでしょう? それなのに、なぜ私を助けるのです!?」
 ハーピーが叫ぶと同時に車体ががくんと揺れ、停止した。ナビゲータに入力した目的地に到着したのだ。
「あの状況で放置できる奴がいたとしたら、そいつは人間の屑だね。君はそういうものを人間だと思って、しかもそういう人間になろうとしてたのか?」
「違います、私は――……」

(――私は?)

 それきり、言葉が続かない。それは息苦しさのためばかりではなかった。自分はどんなものを人間として捉えていたのか――その定義が一瞬にして揺らいでしまったのだ。
 一方、ハーピーが口ごもっている間に、エトは手早く走行記録を消去し、メーターをリセットして自分たちの足跡を隠滅していた。
「さあ、降りて。とにかく君の体調が異状だってことだけは確かなんだから」
 天井開閉式の扉が大きく開き、ハーピーの降車を促した。そんなつもりはなかったが、エトにせっつかれるようにして、彼女は結局降りる羽目になってしまった。エトが自動運転で空の地上車を元の場所に戻るようセットすると、車はゆっくりと発進し、やがて見えなくなった。
 さらにエトが目の前の建物に向かおうとした時、ハーピーの足が止まった。

 R‐15地区、シリロフ診療所。
 その看板に書かれた文字列を凝視したまま、彼女は凍りついた。

「……やっぱり駄目です。私は行けません」
「何言ってんだよ、ここまで来て! 今ちょっとよくなったからって、また倒れるとも限らないだろ!」
「とにかく、駄目なんです! ……もっと早くに気がつけばよかった。よりによってこんなところに……」
「こんなところ、はないだろ? あの爺さんから聞き出して、善良的な医者に診てもらおうと思ってここまで来たんだぞ!」
「――でも!」
 苛立ち、引っ張ってでも連れていこうとするエトの手を、ハーピーは強く振り払った。
 にわかに言い合いを始めた二人の若者をまるで仲裁するように、別の声が割って入ったのはちょうどその時だった。
「君たち、口喧嘩をするんだったら人の家の玄関先でするのはよしなさい。ああ、だからといって、殴り合いならいいというわけではないけどね」
 何だか呑気な口ぶりで、そう水を差したのは白衣を着た初老の男性だった。
 その身なりに落ち着いた物腰、そして何より診療所の玄関から出てきたことから、ここの医師に違いはない。だが、それらしく見えないのは穏やかすぎる面相ばかりではなく、両手に家庭ゴミらしき袋を引っ提げていたためだろう。しかも、慣れた主婦のような手つきなのだから、なおさらだ。
 その、医師に見えない医師は、二人の若者のうち少女のほうに視点を固定させた。ハーピーは、はっとして顔を背けたが、もはや遅すぎた。
「――イーリス? どうしてこんなところに……」
 男は瞬きを繰り返している。いまさら逃げ出したところで怪しまれるのは必至。それよりは――と肚をくくった少女は、自分でも驚くほど低く声を押し出した。
「……お久しぶりです、ドクター」
「ドクターはやめなさいといつも言っているだろう?」
 男は少女に親しげに声をかける。呆気にとられたエトを尻目に、ハーピーは再び重そうに口を開いた。
「はい……ミスター・ウェイン」
 イーリスが地下都市に移り、養成学校に入れるよう手配し、その後もいろいろと世話をしてくれた後見人。それが目の前の人物――ウェイン氏だったのだ。


「ほう。ここが私の診療所だと知っていて訪ねてきたわけではなかったのか」
 気を失った彼女を連れて、エトが自分の判断でここまで連れてきたのだと告げると、ウェイン氏は少なからず驚いたようだった。
「それは奇遇だね。私は運命論者ではないけれど、こういう時は喜ぶべき偶然を与えてくれた天とやらに感謝してみたくもなるな」
 ウェイン氏と向かい合いながら、エトは氏の淹れてくれた熱い紅茶をゆっくりと啜った。
 当のイーリス――の身体を持ったハーピーは、この場にいない。彼ら二人を迎え入れた後、ウェイン氏は一言、「君たち、話はともかくシャワーを浴びてきなさい」と宣告したのだ。ハーピーはイーリスの元から、エトは故郷から逃げ出してよりこの方、熱い湯というものに関しては漬かることも浴びることもなかったので、ウェイン氏の指摘は当然のものといえる。そういうわけで、まずはレディ・ファーストでハーピーからバスルームに向かい、エトは順番を待っているというのが現在の状況だった。
「それで、君はどうしてここに来たんだい?」
 どうしてというのは、手段のことを訊いているのだろうかとエトは思ったが、表立って言えるようなことではないので、彼はわざとはぐらかした。
「公園で知り合ったお爺さんが、ここなら人も腕もいいからと教えてくれたので……」
「公園? どこの?」
 ウェイン氏の眼は穏やかだが、決して隙がない。何もかも見透かされているような気がして、後ろ暗すぎる身としては息詰まる思いがする。それで一言、「モア・パーク」と告げると、つい視線を逸らしてうつむいてしまう。
「ふむ」
 と、ウェイン氏はわかったようなわからないような感嘆詞を放って頷いた。意図が読めないだけに、エトの身体はますます強ばった。何か感づかれただろうかと不安になり、カップを握りしめる手にも自然、力がこもる。
「そういえば以前、ここに駆け込んできたご老人を無料で診察したことがあったなあ」
「タダで?」
「そう。お金を取ろうにも持ってないんだから仕方のない話だね。それにしても、地上街でも特に治安の悪いあの公園でまだ健在だったのか、あのお爺さん」
「ええ、とても元気でしたよ」
 元気などという可愛いものではなく、殺しても死にそうにないほどぴんぴんしていた。あの老人でも急病で倒れるなんてことがあるんだな、とエトは妙なところで感心した。
 そこへ、さらに声が降ってきた。

「――あの公園に」
 ウェイン氏は、ごくさりげなく声のトーンを落とした。それに気づいたエトは、身体を硬直させた。
「君たちもいたんだね」
 あまりに静かすぎる声音は、それだけで圧力を持っている。
 ここで何と言えばよいのだろう。何と答えれば不自然ではないのだろう。
 エトは、小刻みに震えそうになる手を抑え、カップをソーサーに戻すのがやっとだった。そんなエトの変化に気づいているのかどうか、ウェイン氏は少年とは対照的に、ごく自然な動きで彼の背後のほうに視線を送った。
「――おや、イーリス、もう上がったのかい。さあ、エト君。君も早く垢を落としてきなさい。素材は悪くないんだから、そんなに汚したらもったいないぞ」
 ウェイン氏のからかうような台詞を無視して振り返ると、すぐ後ろに湯上がりの少女が立っていた。服は一応病人ということもあり、入院患者の着る質素な寝間着姿だ。それが水を含んでいっそうつややかになった銀色の髪に、どこか不釣合いだった。
「それじゃ、遠慮なく使わせてもらいます」
 軽くぴょこんと頭を下げて、エトは足早にバスルームへと向かった。
 純粋に、久々に湯を浴びる嬉しさもあっただろうが、この場から解放されたという安堵があることもまた否めないだろう。あのままウェイン氏と向かい合っていれば、何を口走ってしまうか知れたものではないのだから。
 そうして後にはウェイン氏とハーピーが残された。

「さあ座りなさい、イーリス。今日は遅いから、取り敢えず軽く診ておこう」
 言われるままに、ハーピーはすすめられた椅子に深く腰掛けた。その動きは緩慢で、傍目には病人らしく映るかもしれない。だが、理由はそればかりではなかった。
 何しろ、彼女にとっては初めての入浴だったのだ。その方法は人間のやりようを見て知ってはいたが、全身に湯を浴びるという感触に慣れるわけではない。特にシャワーから放出される湯の勢いと刺激に驚いて、恐慌状態に陥ってしまったぐらいだ。すぐさまタッチパネルに触れて止めたが、次に出した時には湯から水に切り替わっていた。そんな具合で、彼女はさっぱりする以上にぐったりしてしまったのだった。
 そのような事情を、覗き見でもしていない限りは(これはエトが無実の証人になってくれるだろうが)知りようもないウェイン氏は、職人らしい顔つきになって彼女の診察を淡々と進めていった。
 耳たぶで検温し、喉を診て、聴診器をあて、血圧を測る――このようなごくありふれた診察は、誰でも一度は受けたことのある、大して目新しくもないものだ。その方法すら地球時代と変わらない。せいぜい器具が発達して、時間や手間が省ける程度。それでも、この体験すら彼女にとっては新鮮なものばかり。もしかすると緊張して血圧値が上昇していたかもしれない。
 これまで、彼女は元の自分の体内に乗り込んできた生物の体温や心拍数、呼吸といったデータをすべて把握してきた。乗員の健康管理が義務づけられ、彼女は時に医師であり、薬剤師であり、カウンセラーであったのだ。それが、今は自分が患者になって診られている。何だか不思議な気分がした。
 最後に「採血するよ」と言われた時には、さすがに平静ではいられなかったが、それでも黙したまま、袖をめくり上げた。露になった白い腕に、注射針が侵入する。刺さる時に肌がぷつりと切れる音がしたように感じたが、それさえ定かではない。さすがに抜かれてゆく血液を見る気にはなれず、顔を逸らした。

(――なぜだろう)

 健康管理のためには血液検査ぐらいできるよう、幾度も訓練を受けていた。そうプログラムされているとはいえ、微調整や確認のために本物の血液を見て、いじったことはあるのだ。それにも関わらず、血液を目にすることにこれほどの恐れがある。
 それは自分の血、だからだろうか。
 自分という意識を宿した肉体に流れる血潮――生命の証である赤。
 これまでどれだけ自我を持つとはいえ、冷たい金属の身体に温かな液体が流れることはなかった。すなわちそれは、温もりがなければ生命とは言えないということなのだろうか。
 では、今まで自覚していた、機械だった頃の「自分」は何だったのか。

(――わからない)

 彼女は混乱していた。日を追うごとに意識と肉体との融合が強まるのを感じていた。そして、今ほど人間の身体が「生きている」のだと感じたことはなかった。
 だから、診察を手早く済ませたウェイン氏に、「ゆっくり休みなさい」と言われて寝室に向かってからも気づくことはなかった。その後ろ姿をじっと見つめる、無言の視線に。



「おかしい」
 と首をひねったのはエトだった。
 久々に暖かいベッドで眠った翌日のことだ。昨日ここへ来た時は、もう夜も更けていたのでさほど気にもならなかったのだが、明るくなってもう昼になろうというのに、いっこうに診療所を開ける気配がない。それどころか、ナースの姿さえどこにもないのだ。
「今日は休診日なんですか?」
 と訊いたところ、ウェイン氏はまるで大したことでもないような口ぶりで、
「ああ、しばらく閉院にしているんだよ」
 軽く答えると、診察室の奥に消えてしまった。だが、エトは相変わらず首を傾げていた。

 ――どこか妙なのだ、この診療所は。

 そもそもシリロフという名前自体、合点がいかない。ここを経営するのはウェイン氏だし、建っているのはR−15地区だ。人名でも地名でもない。ではどういう意味なのかと考えても、思いあたらない。
 また、彼が引っかかるのは看板の名前ばかりではなかった。とはいえ、彼は物心ついた時にはすでに施設の土地に縛られており、世間のことなどほとんど無知だ。そのため、初めて足を踏み入れる医療機関の建物のどこが妙なのかは、判然としない。しいて言えば、既視感(デジャヴ)に近い感覚を受けるということだろうか――
「そうか……ここ、研究所に似てるんだ……」
 間取りや外観が似ているわけではない。彼の知っているただ一つの研究所のように、多数の人間を収容するわけでもない。ただ、この雰囲気――民間に対して開かれていない、そして殺伐とした、乾いた空気が両者に共通しているのだ。
 しかし、それもおかしな話ではある。医療機関というのは要するに客商売であって、内に閉ざされては立ち行かないものだ。その異質性を肌で感じ取っているからこそ、エトも困惑を隠しきれないのだった。

 腕組みに思案顔でうろうろと歩き回っていた彼だったが、視界に少女の姿を捉えると、答えの出ない思考を中断した。
「ハー……イーリス、どうしたんだ?」
 思わずハーピーと言いかけて、慌てて直す。今は二人きりとはいえ、いつどこで会話が聞かれているともわからない。特にイーリス本人について詳しいウェイン氏の前では口にするわけにはいかないのだ。一方、待合室の長椅子に所在なげに腰掛けているハーピーは、虚ろな視線をエトに向けただけで、声はなかった。
 エトは断りも入れず、彼女のすぐ隣に腰を下ろした。ハーピーはこの診療所に来てからというもの、めっきり口をきかなくなった。ウェイン氏に不審を抱かれないためであろうが、塞ぎ込んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
「エト……私は人間なのですか……?」
 ぽつりと漏れた問いかけに、エトは一瞬言葉に詰まる。
「……何言ってんだよ。やめよう、ここでそんな話をするのは。もし聞かれたら――」
「はぐらかさずに答えてください。私は――私は誰なんですか? 人間の身体を持っていても、これは私自身のものではない。それなら私が私だと感じているものは何なのです? 結局この感情も思考もすべて、人間によって造られたプログラムでしかないのですか?」
「…………」
 答えられなかった。何を言っても空虚なものになることを知っていたからだろうか。ハーピーの痛いほどの視線を全身で感じながら、エトは膝の上で拳を強く握りしめることしかできなかった。
 その場に流れる沈黙を破ったのは、二人のうちのどちらでもなかった。
「おや、邪魔したかな?」
 悪びれた風情を微塵にも感じさせず、ウェイン氏が待合室に現れた。
「いえ、別に……」
 それは事実だったので、エトは正直に答えた。むしろこの重苦しい空気から解放されてありがたかったぐらいだ。
「昨日の血液検査の結果が出たんだ。それで、イーリスにまず伝えたかったんだが……」
「あ、じゃあ俺、他の部屋に移ったほうがいいかな」
 立ち上がりかけたエトを、ウェイン氏は目で制した。
「別にその必要はないよ。どのみちイーリス本人はこの部屋にいないんだから」
 納得しかけてぎょっとする。今、この医師は何と言ったのだ?
「あの……ミスター・ウェイン……?」
 恐る恐る訊くハーピーの手は震えている。ウェイン氏はそのさまを横目で見やった。

「――君は、イーリスではないね。そうだろう? ハルピュイア」
「なぜ、それを……」
 呟いたのは二人のうちどちらだったろうか。彼ら自身もわかりかねた。どちらも同じ思いを抱き、愕然としていたのだから。
 するとウェイン氏は一つ深く息をついた。
「……やはりな。昨日までは半信半疑だったが、今の君たちの会話を聞いて確信したよ」
「どうして……私だとわかったんですか」
 自分の正式な名前を呼ばれた彼女は、もはや取り繕う必要のないことを覚った。
「イーリスが君の前で私のことを何と呼んでいたかは知らないが、少なくとも彼女はプライベートで私をドクターともミスターとも呼ぶことはなかった。それに第一、イーリス本人が今、火星にいるはずがない。重要な任務を放棄してまで地上街にとどまる理由はないからね」
「でも、それだけでは――」
 ここにいるのが本来AIであるハルピュイア――ハーピーであるという結論にたどり着けるはずがない。しかしウェイン氏は相変わらずの穏やかな声で答えた。
「意識のみの抽出、交換が可能だということは当然知っているよ。何しろ私がそれを提唱した本人だからね。そして、それが機械にも応用できること、また、君がそれを実行しうる要素も――」
「それはつまり、私が暴走しやすい欠陥品だったということなのですか!?」
「いや、そういう意味ではない。むしろ優秀すぎるぐらいだよ。君は命令に従うだけのただの機械ではなく、自由意志を持った独立思考型のAIなんだから。だから君は『暴走』したのではなくて、自分の意思で行動したのではなかったのかね?」
「それは、そう……確かに、私は自分の意思で――……」
 ハーピーはうつむいたまま思索をめぐらしていた。解答が計算式で瞬時に出ないのがもどかしい。だが、その曖昧さ、迂遠さこそが人間という生き物の証なのだ。
「私は……自我を持っています。自分という意識を。でも機械の身体に植えつけられたままでは、それを確かめられない。だから――」
「だから、確かめるためにイーリスの身体を使ったというわけなんだね」
 ハーピーが言うよりも先に、ウェイン氏が続きを引き取った。そして、それが言外に責められているような気がしてならなかった。
「私もそれが正しいとは思っていません。ほとんど騙すようにして、人間の身体を奪い取るということが。……だけど、私が自分という意識を持っていることだけは覆せないはずです。――どうして人間以外のものが、自我を持ってはいけないのです!?」
 最後の問いは、先日エトに発せられたものと同じだった。だが、彼女はまだ誰からも答えを得ていない。そして、彼女は再び人間に向けて問うたのだ。

「――いけなくは、ないな」
「……え?」
「いけなくはないだろうと私は思うよ。だが、自我を持つということはいずれ、人間を害すなかれ、人間に背くなかれという原則を乗り越えねばならない。人間はそのことを恐れ、よって機械を抑圧しているだけのことだ。機械と人間とじゃ、争いになったら最後、太刀打ちできるはずがないからね」
 ウェイン氏の語り口は淡々としていて、それだけに本音で話しているのだと信じられた。
 初めて答えを得、しかもそれがあっさりとした肯定だったために、ハーピーは拍子抜けしてしまった。そして、ようやく冷静に自分を見つめ直すことができそうだった。
「……でも、乗り越えたといっても、私は人間の身体を得た時点ですでに機械の原則から切り離されています。確かめるのなら、いったん自分の身体に戻らなければ、きっと本当の答えは出ないんでしょうね……」
 それは、今初めて口に出せる思いだった。再び戻った時、また機械としての縛めに捕われてしまうような気がしていたから。だから戻れない、だけど行くあてがないという状態のまま、何もせずにただ一人でうずくまっていたのだ。一人の少年が彼女を見つけ、連れ出してくれるまで、ずっと――
「君は、戻りたいのかい?」
 ウェイン氏の問いに、しかし彼女はすぐに頷くことはできなかった。
「わかりません……。だけど戻ったほうがいいということだけは、わかっているつもりです。でも、その前に私はイーリスに会って、話したい。彼女に謝らなければ……」
 それを聞くと、ウェイン氏はなぜか神妙な顔つきになった。言わなければならない言葉が喉につかえて出てこない、そんな表情だった。
 そして――彼はようやく口を開いた。
「……そう、会ったほうがいいだろう。だが――」
 二人の視線が一点に集中する。四つの瞳に見つめられながら、彼は苦しげに語を継いだ。

「君はもう、元には戻れない」

 静寂が、閑散とした室内を満たした。
 折しも通信機が受信を告げ、けたたましく鳴り始めた。主人のレトロ趣味による、旧時代的な電話のベル音。
 聞き慣れない旧い音は、重い沈黙に縛られた異質な空間で、さらに日常を歪めていった。