4th movement 真紅の谷
-bloody valley-



 あの時――エトが必死で呼びかけ、助けを求めていた時、実のところ助けようとしてできなかったわけではない。だが、ドアを開けてしまったら、エト以外の人間もまた一斉になだれ込んでくることは明らかだった。
 それだけは何としてでも阻止したかった。あのような醜い輩を船内に土足で踏み入れさせるのは、船を――彼女を汚すような気がしてならなかったのだ。
 そんな考えは馬鹿げている。
 以前の自分であれば、そう即断しただろう。だが、今は違う。
 自分の主人に命じられ、また自らも守ろうと心に決めていた人間の少年を見捨ててでも、この船の少女を優先させていたのだと改めて実感し、フィオは愕然とする。
 だが、彼女――イーリスは人間だ。たとえ仮初めの、機械の身体を持とうとも、心は人間のままだ。だから自分は人間という生き物に仇なす、どこかの機能を狂わせた暴走アンドロイドではない。フィオはそう己に言い聞かせ、息をつく。もちろん、その呼気は肺から排出されたものではないが、仕草ばかりは人間らしい。そうして、フィオはふと気づく。
 機械に移し換えられた人間の意識が、人間として機能しうるのであれば――初めから機械として生まれ、そこで芽生えた意識もまた、人間のそれになれるのであろうか、と。

 火星の月は鈍い光沢を放ちながら彼らを見下ろしている。
 光が淡く、弱々しいのは何も払暁近いためばかりではない。火星のたった二つの衛星、フォボスとダイモスはいびつな形をしており、他の太陽系の天体に比べて非常に暗い。次第に白みかけてきた空では、やがてその姿も朧になる。大きく、近いほうの月フォボスは東へ、小さく、遠い月ダイモスは西へといずれ沈んでゆくのだ。
 天では彩が移りゆく頃、地上の彼らは谷合にあった。谷といっても長さ五千キロにも及ぶマリネリス峡谷のような大規模なものではない。それより南東のパラナ谷というところだ。かつては複数の湖と河川が存在したというが、それもすでに失われて久しい。その谷底で夜明け前の空を遠望しつつ、フィオは場違いながら、なんと船磨きをしていた。
 確かに、イーリスの宿る船は火星の大地に埋められ、掘り起こされてからというもの一度も洗ったことはない。第一そんな暇はなかったし、人手も足りなかったのだが、そのためにもとは美しかったはずの新船は錆びたような、鈍い鉄色になってしまった。
 だが、今はそのようなことをしている場合ではないのではないか。そんな思いが、これまで沈黙を守り続けたイーリスの重い口を開かせることになったのだろう。口、というより正しくは対話システムだが。

「……フィオ、あなた何してるの」
「船の外壁を磨いてるんだ。火星の砂にまみれてすっかり赤茶けていたからね。本当はもっと早くに綺麗にできればよかったんだけど――……」
 言いながら、フィオはくすりと笑みをこぼす。たとえ彼が外にいても、目と耳は生きたままのイーリスはそれを見逃さなかった。
「何よ、何がおかしいの」
「いや……君がようやく口をきいてくれたなと思っただけだよ。さっきまで相当怒っていたみたいだったからね」
「な……っ、お、怒るに決まってるじゃないの! 今だって怒ってるわよ! あなたが、あまりに薄情だから――」
「僕は人間じゃない」
 怒気に満ちた声を遮り、きっぱりと言い放つ。
「と、言ったはずだよ。君も聞いていただろう?」
「……それは、そうよ。だけどずるいわ。あなたはそれまで、ずっと自分の素性を言わなかったじゃない。知っていたら私――」
「軽蔑したかい?」
「馬鹿なこと言わないで!」
 イーリスは反射的に否定したが、その後が続かない。言葉に窮した彼女の代わりに、フィオが毅然と口を開く。
「僕は人間だと、一度も君に告げたことはない。嘘をついて騙していたわけじゃないよ」

 それが言い訳に過ぎないことをフィオは知っていた。
 それにしてもなぜ、自らの正体を明かさなかったのか――それは、自分が人間と異なる存在であると知れた時、拒まれるのを怖れていたからだったろうか。
 彼女の心は人間だったから。同じ機械の身体を持ちながら、自分と違って人間の精神を宿す彼女だったから――何よりも貴いと思えたのだろうか……。
 砂塵の汚れを洗浄泡で拭い取ると、フィオは船のてっぺんから地上に降りた。
「綺麗になったよ。イーリス、手を伸ばしてごらん。アームの先端のカメラで全体像を映せるはずだから」
 言われて、イーリスは恐る恐る「手」を伸ばす。彼女の本来持っていた、白く華奢な、すぐにも折れてしまいそうな腕とは似ても似つかない。だが、身体を交替した時にどこかが切り換わってしまったようで、今の彼女は意識の中ではっきりと、その不恰好な「腕」の動きを知覚している。

 ちょうど、日の出の頃だった。昇り始めた太陽が、冴えない月とは対照的に、晧々と光を惜しみなく、余すところなく降り注ぐ。
 そして、白日の光は乾いた谷間にもこぼれ落ちる。
 イーリスが見たのは、まさに朝の陽光の中で輝く自らの船体だった。同時に、温もりを手放してから新たに得た身体を視認するのも、これが初めてのことだった。
 彼女に呼吸機能が備わっていれば、大きく吐息したかもしれない。
 船は、本来の白銀色を取り戻していた。そして、光の中でなめらかな表面は虹のように、幾重もの彩を帯びてきらめいていたのだった。

「君は知ってる? イーリスというのは、もとは虹の女神の名前なんだよ。ちょうど今の君にはよく似合ってる」
「……関係ないわ。だってこの船は、もとはハーピーのものなんだし」
 しかし、フィオの次の台詞は彼女の意表を衝いた。
「そうでもないよ。ハーピー、つまりハルピュイアとイーリスは、その大昔の神話では姉妹なんだから」
「――え?」
「新船一番乗りの派遣員の名簿を見て、誰かがAIにそう名づけたのかな。それとも似合いだからと、君に姉妹の名を持つこの船をあてがったのかもしれないな」
「ねえ。それで、ハーピーは神話ではどんな神様なの? あ、女の人だから女神か」
 その問いに、フィオは首を左右に振った。
「神じゃない。ハルピュイアは人妖なんだ」
「人妖……?」
「そう。頭と体は女の姿をしているけれど、鳥の爪と翼を持つ。時に人を襲ったりして、たまの出番も必ず悪し様に語られる。主神の使いとして伝令の役目を果たした虹の女神とは、似ても似つかない」
 イーリスが黙り込んでいる合間に、フィオは短く息をついた。

「――だから、なのかな」
「え……何が……」
「ハルピュイアはどう足掻いても、どれだけ願っても人にはなれない。まして神々の眷属には。それが生まれ落ちた時からの宿命だから。――だから、焦がれたんだ。異形の貌をした自分を捨て、姉妹の身体になり代わってまで……」
「ちょっと待ってよ。そんな、古い神話の話とごっちゃにしないでよ。――私は違うわ。現実は……もっと別のものよ」
 すると、フィオの漆黒の瞳がわずかに細められた。
「――どう違うんだい?」
 イーリスは答えなかった。彼女が答えを返さぬうちに、フィオは自分の言葉を続けた。
「僕は確かに自分の正体を明かさずにいた。だけど、君も僕に黙っていることがあるだろう?」
「だ、黙るって何を……」
「それは僕にはわからない。でも、以前にも話した通り、ハーピーの行動には不明な点が多い。そして、君の今までの話だけでは、それを説明するに至らない。全貌を把握するのに情報が足りないんだ。――つまり、君が何かを隠しているということになる」
「私……私は――……」

 その先にあったのは弁解だったろうか。それとも、あくまで知らぬ存ぜぬで押し通すつもりだったろうか。
 いずれにせよ、それが音声として発せられないうちにフィオは遮ってしまった。
「話はあとでゆっくりと聞かせてもらうよ。もう少し落ち着いてからね。今はお客様のおもてなしのほうが先だ」
「お客様?」
「そう。ようやくたどり着いたらしい。こちらもそれなりの饗応をしてやらないと」
 フィオは谷間の真上の、切り取られたような空を見上げた。だが、彼の見つめるのは夜の気配を拭い去った天空ではない。そこから現れるはずの訪問客――
「管理局、が来るの……?」
 イーリスは、おずおずとその名称を口にした。特にこの火星では、航宙管理局の杜撰さと横暴さが評判となっている。火星住民である彼女が、局に対し好印象を抱いているはずもないのだ。

「イーリス。少しの間、眠っていてくれないか」
「眠る、って……?」
「自分では目をつぶり、耳を塞ぐことはできないだろうからね」
 フィオの言葉は質問の答えになっていない。だが、彼女はその意味するところを察した。
「――何を、するの。見られたくないような、聞かれたくないようなことなの」
 フィオは答えない。
「また暗闇に閉じ込めてしまうことになるけど、すぐに終わる。それまで待っていて」
「――フィオ!?」
 イーリスはそれ以上何も訊くことはできなかった。――聞くことも、見ることも。
 すでに一度味わった、完全な孤独の闇の中に取り残されてしまっていた。眠ることなどできない。ただ、外界と繋ぐすべての機能が遮断されてしまったのだ。
 それを強行した張本人は、澄み渡った空の中に飛来物を見つけると、小さく呟いた。
「……ようやくお出ましだ」
 勝率はさほどの数値でもないのに、成功を逸る。だから、ただ待つだけの行為がどこかもどかしくもある。――これを、人は高揚感と呼ぶのだろう。