5th movement 虹の架橋
-over bridge-



 長い時が過ぎたような気がした。だが、実際にはウェイン氏が通話スイッチを入れてから切るまで、ほんの数分しか経ってはいなかったのだ。すぐにも問い質したい思いを懸命にこらえるエトを、通話を終えたウェイン氏は振り返った。
「エト君、君の知り合いのフィオという人からの連絡だよ」
「フィオからぁ!?」
 意外な名に、エトは頓狂な声を上げてしまった。彼は、フィオに見捨てられたのだと決めつけていたし、そもそも今の居場所を知るはずもないと思っていたのだから無理もない。
「今からイーリスを連れてこちらに向かうそうだ。それまで、ここで待っていてほしいと言っていたよ」
「――何を言ってるんだ、あいつは!?」
 エトは叫んだが、誰も答えはしなかった。古い馴染みの彼にわからない以上、フィオについて何も知らない二人に答えられるはずもない。赤みがかった髪を掻きむしりながらそのことに気づいたエトは、しぶしぶとではあるが怒りの矛先を収めた。
「フィオという人物は何者なんだね? どうやらずいぶん事情に詳しいようだが。しかし、こちらはまだ何の情報もない。できれば彼が到着する前に君の口から多少なりとも話してはもらえないだろうか」
「それは――……」
 何と言えばよいのだろう。誰かを説明しようとする時、その人物に対する感情が妨げとなって効率よく情報を提供できないということがある。特にエトは今、フィオに対する様々な思いが渦を巻いていて、混乱の極致にあったのだからなおさらだ。

 エトが考えあぐね、口ごもっていた隙を突くように、鋭い声がその時、駆け抜けた。
「私はまだ答えをもらってないわ!」
 二人の視線は一点に集中した。もし視線に光と熱があれば、たちまち焦げついて煙をくすぶらせたことだろう。焦点となったのは、少女の真剣な瞳だった。
「……ハーピー」
 先に呼んだのはエトだった。だが彼女の銀の瞳は、糾弾の対象を捉えたまま揺るがない。
「私が……元に戻れないとはどういう意味なのです!? 私が戻れなければイーリスは? あの子もまた、この身体には戻れないと――そういうことなのですか!?」
 ウェイン氏は答えない。ただ、空虚に投げ出された視線と、熱くたぎる視線とが、両者の間でぶつかり合う。その攻め合いを一方的に打ち切ったのは、熱を帯びたほうだった。

「ハーピー!?」
 慌ててエトは彼女の身体を抱き起こした。叫んだ後、ハーピーはまた以前と同じ発作に見舞われ、その場に崩れ落ちたのだ。彼女を支えるエトの手から引き取るようにして、ウェイン氏はその華奢な身体を抱え上げた。
「奥に運ぼう。彼女は本来なら安静にしていなければならないんだ」
 苦しげに肩で息をする少女を両腕でしっかりと支え、ウェイン氏はベッドのある診療室のほうへと歩き始めた。ウェイン氏は痩身で手足も細長く、見たところひょろひょろとしていて、いかにも頼りなげだ。それでも、抱き起こすのが精一杯の十六歳の小柄な少年とは違い、易々と抱え上げて歩いてゆく背中を、エトは唇を噛みしめながら追いかけた。


 鎮静剤で呼吸がようやく落ち着いたハーピーは、静かにベッドに横たわっていた。その寝顔を表情のない顔で見下ろしていたウェイン氏に、エトはようやくのこと声をかけた。
「安静にしてなければいけないほど、ハーピーの容態はよくないんですか」
 ウェイン氏は少しだけ振り向いた。
「君も幾度か発作を目撃しているだろう。見ての通りだ。特に興奮させたりしてはいけない。あまり発作が頻繁に起こるようだと、身体に負担がかかりすぎる」
「……それで、さっきハーピーが訊いてたことは――」
「それは、彼女に答えてやらなければならないことだね」
 口にしかけたエトの言葉を、ウェイン氏はそう遮った。訊いた当人が眠っている以上、話す必要はないと拒絶したも同然だ。憮然と口を噤む少年を、医師はちらりと見やった。
「すべては彼らが到着してから話そう。それまでお茶でも飲みながら待つとしようか。そのお客人の為人も聞きたいところだしね」
 先程までの強ばった表情はない。穏やかな微笑に誘導されて、エトは結局ウェイン氏についてゆくことになった。
 去り際、ベッドで眠る少女を振り返ると、規則的な寝息が彼らを見送っていた。