OVER 5th mov.




「ハーピーとの話は済んだかい?」
 眼下に、手のひらサイズの火星を眺めやりながら、フィオは不意に訊ねた。
「ええ、もう大丈夫」
 イーリスは満足げに頷いた。といっても画面上のことだ。フィオは手早く対話システムの仮想映像を再び元に戻しておいたのだった。
「ねえ、フィオ。私、本当に自分の身体を貰えるの? そのフレッドって人、私みたいな見ず知らずの相手にもそんなことをしてくれるの?」
「ああ、フレッドのことなら心配いらないよ。何しろ僕を造ったぐらいだからね、腕は確か。それに、基本的に困ってる奴を放っておけないたちだから、君がお願いすれば二つ返事で引き受けるだろうよ。まあ、だから変わり者と言われるんだろうけどな……」
「変わってるって、どんなふうに?」
「要するに、昔でいう『道端の捨て犬を持ち帰る』タイプだね。さすがに犬はいないんだけど、実験用のラットの子供とか、廃棄処分になりかけた旧型の家事ロボットとか……。お陰でラットは増えるし、ロボットもどんどん拾い集めてくるものだから、家事を細かく分担させてもまだ余る。炊事係、風呂掃除係、ゴミ出し係、お茶汲み係……」
「そんなにたくさん?」
「まだまだいっぱい。最近じゃ研究室をロボットが埋め尽くしそうだからって、ちょっと改造した子守用のやつをあちこちの施設に輸出してるよ。本当は廃棄しなきゃならないやつだから、一般家庭には置けないんだ」
 だったら棄ててしまえばよさそうなものなのに。恐らくは機械人形に対して強い思い入れがあるのだろうが、確かにそれは充分変わっている。無論、だからこそフィオのような人間に近いヒューマノイド・ロボットを造る気になったのだろうが。
 舷窓の向こうで、火星が次第に小さくなる。先程まで手のひらサイズだったのが、今はもう指先にも載せられそうだ。やがて肉眼と同じ倍率では見えなくなるだろう。
 外を眺めていたフィオが、不意に振り向いた。

「――本当に、君はこれでよかったのか?」
 漆黒の瞳が、実体を持たない少女を静かに見つめる。彼女はあるはずのない喉で息を呑んだ。
「……何が?」
 聞き返す、彼女の声は細い。
「君は僕たちの同情を引こうとして嘘をついたと言った。そして、ドクターは再び元に戻るには身体に負担がかかりすぎると言った。だけど、もしかしたら人に戻れるかもしれない最後の可能性を、君は試さなくてもよかったのかい?」
「そんなの、いまさらもう……」
「そう、遅いね。――だけど、君はまだ人間に戻りたがっている」
 フィオは断定したが、彼女はそれを否定しうるだけの材料を持ち合わせていなかった。
「それは……私だって本当は人間として生きたかったわ。最後まで人間の温もりを手放さずに……。でも、もう何もかも手遅れよ。私に残された途はこれしかなかった……身勝手に生きたがったせいで……」
 ――何でわざわざ人間の身体を捨ててまで生きたがるんだよ?
 少年の鋭い声が鮮明に蘇る。彼女は、あの少年のように人間らしく、生を全うすることができなかった。永遠の生命の可能性を捨て、生まれ育った故郷を捨てて飛び出せるほどの、強い意志を持った少年のようにはできなかった。
「生きたいと願うことは罪じゃない。誰もが死にたくないから生きるんだ。みんな同じなんだよ。ただ、方法が他人とは違ってしまっただけで……」
「……ええ。でも、私決めたの。自分のしたことを決して忘れずに、いつか終わりが来るその日まで、ずっと忘れずに生きていこうって――」
 少女たちの交わした約束。必ずいつの日にか自分の歩いてきた軌跡を振り返るのだと。互いを忘れずに、思い出しながら生きていくのだと。
 イーリスはそれ以上何も言わなかった。すると、フィオはふと思いついたように口を開いた。

「イーリス。新しい身体を手に入れたら、君は真っ先に何をしたい?」
「――思いっきり泣きたいわ」
 その答えにフィオは一瞬、戸惑った。
「それは……」
「わかってる。できないことぐらい。もう私は人間の身体を持てないんだもの。だけど、今のアンドロイドだったら感情パターンに合わせて目から温かい生理食塩水を流すことぐらいできるんでしょ? それならちょっとは気分が出るわね。今のままじゃ泣くどころか、動くことも触れることもできないんだもの」
 画面の中のイーリスは、そう言って肩をすくめてみせた。だが、それはあくまで実体のない映像に過ぎない。長い間、生身の身体を持って生活してきた彼女にとって、意識はあるのに動かすべきものがないという状況は、相当もどかしいものなのだろう。
 フィオは答える代わりにスイッチを押した。彼が航行機能より先に復旧させた娯楽システムの一つ。イーリスが訝しむうちに、スピーカーから音楽が流れ始めた。
 音質はかなり古い。だが、雑音混じりのピアノの前奏は印象的で、すぐに惹きつけられた。続いて流れる柔らかな歌声を聴きながら、彼女は訊ねた。
「これ、何て曲?」
 すると、静かな声が返る。

「『明日に架ける橋』」

 船は火星から遠ざかる。ひとりの故郷を離れ、もうひとりの故郷へと向かう。
 広大な闇の中、星々のきらめきを銀の肌に受けて航ってゆく。
 遠い時代の、甘い歌声に満たされながら。


  Like a Bridge Over Troubled Water  明日に架ける橋のように
  I will lay me down            僕は身を投げかけてあげよう