Finale


 長旅を終えたフィオのもとに真っ先にやってきたのは、「お出迎え係」だった。
 フィオの記憶によれば確か十番目(テンス)に拾い上げた「捨てロボット」のはずだ。テンスはかたかたという旧時代的な摺り足の音を立てて、訪問者を出迎えた。
 フィオがセーガン博士に取り次ぐよう頼むと、テンスは表情のない顔で少しだけ困惑した様子を見せたが、主人にアクセスして了承を得ると、無駄のある大がかりな動作で踵を返し、招かれざる客を奥に案内した。
「久しぶりだな、フレッド」
 セーガン博士のことを気安くそう呼べるのは、この建物ではただフィオのみ。懐かしいその名を呼ぶと、セーガン博士はゆっりと振り向いた。
「だいたい一か月といったところだね。顔を合わせない期間としては割合長いほうかもしれないな」
「どうしてそんな回りくどい言い方をする必要があるんだ? ただ一言、おかえりといえば済むだろうに」
「まさか家出息子が帰ってくるとは思わなかったからね。これでも私なりに精一杯、当惑を表現しているつもりだよ」
 今、この場に彼ら以外は誰もいない。常にそばにある、通称「世話焼き係」の秘書(セクレタリ)さえも。だから両者が口を閉ざしてしまえば、そこには完全な沈黙が訪れる。
 それを先に破ったのは、帰ったばかりの家出息子のほうだった。

「わかってるよ。規定を破った暴走ロボットは廃棄される。そして、僕にもその条令が適用されるってことぐらい」
「……ああ、わかっているだろうね。君は優秀だから」
「暴走したにも関わらず、か?」
 セーガン博士は無表情のまま、再び唇を引き結んだ。だが、頬の筋肉が常態より収縮して強ばっていることは、フィオの「目」には明らかだった。
「仕方がないさ。社会は人間のためにある。万物の主人たる人間を脅かす存在が排除されるのは当然のことだ。人間は非力だから。自分たちの造り出したものを完全に制御できなければ、叛乱軍に呆気なく敗北することは目に見えている」
「その通り、だな。残念だが」
「気に病むことはないよ。フレッドに責任があるわけじゃないんだから。そんなことより一つ頼みがあるんだけど、聞いてもらえるかな?」
 セーガン博士の瞳孔が拡大されたのがわかった。意外に思ったのだろう。驚きの表れだ。
「言ってごらん」

「僕が近々廃棄されるのは明らかだ。だけど抹消されるのは頭脳だけだろう。だから、残ったボディパーツで僕が乗ってきたあの船、MA‐802のAIに身体を造ってやってくれないか」
「船の、AIに?」
「そう。彼女は女の子だからね。間違っても今の、このタイプのまま使ったりしないでくれよ。くれぐれも」
「それが、願いか」
 セーガン博士の確認に、フィオは深く頷いた。
「ああ。それだけだ」
「……わかった。君の最後の願いだ、必ず叶えると約束しよう」
 すると、フィオはかすかに笑んだ。あまりにも自然な微笑は、その皮膚の下に硬い金属があるとはとても思えないほどのものだった。
 格納庫に行ってくるとだけ言い置いて、静かに退場しかけたフィオを、セーガン博士は呼び止めた。
「――フィオ」
 帰ってきてから初めて呼んだ。自らの一字を授けたその名前を。
「なぜ戻ってきたんだ。待ち受けるものが何か知っていたのに、――なぜ」
「あなたの命令を実行できたからだよ」
 瞬きさえ忘れて見つめる博士を、フィオは少しだけ顧みた。
「――僕は、人間になれたんだ」
 そうして、静かに立ち去った。


 格納庫には、普段使われない小艇や軽艇などが搬入される。特に、手直ししなければ使いものにならないような老朽船が多い。
 ここに、本日搬入されたばかりの小型船が一隻収められている。火星から航ってきたその船はMA‐802という、ぴかぴかの新型船だった。なぜそのような船がこんなところに保管されているのかというと、それは惑星間条令と航宙規定法を恐れてのことだった。なんと、このMA‐802は一月以上前から行方不明となって捜索中の派遣船だったのだ。それがどういうわけか、研究所内から逃亡した暴走アンドロイドがこの船に乗って堂々と舞い戻ってきた。おまけに派遣員の行方は杳として知れない。このことが露見すれば保安局と管理局の非難はまず免れないだろう。政府からの援助費も削減されるに違いない。
 そういうわけで、現在上層部ではこの件を報告するか否かで論議が紛糾している最中だった。その間、問題の船は人の出入りの少ない格納庫にしまわれている。
 その格納庫の厳重なロックを、いとも容易く開いて侵入してくる者があった。ゆっくりとした足音が、銀色の小型船の前でぴたりと止まる。

「イーリス」
 呼ばれて、彼女は暗視カメラで暗がりの中の人影を捉えた。この所内で、はぐれ派遣船のAIの名を知る者はただ一人。
「フィオ、どうしたの?」
「今、フレッドに頼んできたよ。近いうちに君の身体を造ると約束した。もう、安心していいよ」
「本当に?」
 静かに頷くと、イーリスは嬉しげな声で一言「よかった」と漏らした。顔が見られれば相好を崩していたことだろう。だが、今はフィオが警戒して彼女の映像を消してしまっているので、それを視認することはできない。
 フィオは船内に入り、操縦室の扉を開いた。
「イーリス。君が新しく生まれ変わるまで、しばらくの間眠っていてくれないか」
「眠る? 前みたいに?」
「そう。また外の世界から遮断してしまうことになるけれど……」
 彼女は以前、闇の中にただ一人取り残されることに怯えていた。あの嘆きを知っているにも関わらず、彼は再び彼女にそれを味わえと言っているのだ。
 拒まれるのは承知の上だったが、答えは意外なものだった。
「いいわ。しばらく眠ることにする。今度は前と違って信じられるものがあるから大丈夫。いい夢を見ながら待ってるわ。――でもね、フィオ」
 彼女は毅然と言い放った。
「私は生まれ変わったりしない。どんな時も、どんな姿でも、私は私のままだから」


 もの言わぬ船から降り立って、彼は彼女を見上げた。
 眠りについた彼女の魂を宿す、銀色の殻を。

 ――再び目覚めた時、彼女は泣くだろうか。

 新たな身体を得たら思いっきり泣きたいと言っていた彼女。その、産声の代わりに流す涙が自分に捧げられるものならば、それもいいと彼は思った。
 何という浅はかな、身勝手な願い。
 だが、その己の醜さも目を逸らさずに受け止めねばならないのだ。人を想い、それゆえ願う――彼は、人になれたのだから。
 手を伸ばし、船に身を預ける。手のひらにも頬にも、銀色の肌のひんやりとした彼女の温度が伝わってくる。
 そうして彼は、そっと囁く。もう聴こえていないはずの、夢の中の彼女に向けて。

「――おやすみ、イーリス」