OVER


- overture -

 深い闇に抱かれて、彼女たちは旅立った。
 暗く、広大な宇宙に銀色の身体を横たえて、彼女は告げた。
「もう大丈夫ですよ、イーリス。無事、宇宙空間に突入しました」
 それを聞くと少女は大急ぎで安全ベルトを外し、窓へと向かって駆け寄ろうとした。だが、無重力状態ではそのようなことができるはずもない。溺れかけた犬のように手足をじたばたさせて空中を泳ぎ、窓の縁に掴まってようやく身体を固定させた。
 そして舷窓の外を見やる。眼下に広がる無限の冥海、そこに浮かぶ孤島のような惑星を。
「ねえ見て、ハーピー。火星が足下に……私たち、火星を見下ろしてるわ!」
 少女のはしゃぎぶりをたしなめるように、彼女は答えた。
「見えてますよ、もちろん。私の目は外にもついているんですから」
「ああ、そうね。あなたは外のカメラと繋がってるんだったわよね」
 言いながら、少女は闇に輝く赤い惑星を見つめていた。食い入るように、顔を舷窓に近づけて。
「本当に……火星って赤いのね。あの色が街を囲む荒野の赤……」
 その瞳に浮かぶのは憧憬と、そしてわずかな望郷の念だった。そんな少女の想いを知ってか知らずか、彼女は再び声をかける。
「さあ、そろそろ寝床についてくださいね。旅はまだ始まったばかりなんですから」
「OK。充分、英気を養うとするわ」
 少女はぺろりと舌を出して、危なっかしい泳ぎ方で睡眠カプセルの方へと移動していった。そしてカプセルの開閉ボタンを押しながら、少女はふと思い出したように口を開いた。
「ねえ、あとどのくらいで航路に出るの?」
 今はまだ火星の衛星軌道に乗った状態だ。このままでは、火星の二つの月と一緒にぐるぐると回り続けていっこうに先へは進まない。
「あと一周半で噴射推進をスタートして慣性飛行に移ります。星図でコースを確認しておきますか?」
「ううん、いいわ。あなたがそう言うなら、きっと大丈夫でしょ」
 少女はすでに身体の半ば以上を横たえている。服用したばかりの薬のお陰で、頭の芯がぼうっとする。長旅に睡眠はつきものなのだ。
「着陸する前にはちゃんと起こしてよ」
 そう念を押す少女に、彼女は苦笑を交えて答えた。
「わかってますよ、相棒」
 そして少女はカプセルを閉じた。頭部はすっぽり電子枕に覆われている。眠る間、そこから発するα波が脳を優しく刺激してくれるはずだ。
 少女は目を閉じ、深い眠りについた。
 それを見届けると、彼女はそっと囁いた。もう聴こえていないはずの少女に向けて。
「――おやすみ、イーリス」


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