第一章 幻月


 広大な宮城内でひときわ天を突くように高くそびえる楼は、渡月宮と呼ばれる。天上の月へ昇るために建てられたこの渡月宮は、地上で最も高い楼閣であるという。国内のすべての建築物は、渡月宮より高層に造ることを禁じられているのだ。
 この国で最も月に近い楼閣の屋根に、ぽつんと一つの影が浮かび上がった。それは細身の人間の形をしていて、不安定な屋根のてっぺんで悠々と屈伸運動を繰り返すと、やがて無造作に腰を下ろした。
 ちょうどその時、頃合を見計らったかのように後ろから聞き慣れた声が上がった。
「眠らなくていいのか?」
「人の背後に回るな」
 この変態男、と付け加えることも忘れない。
 振り返って確認するまでもなく、背後に立っていたのは、彼女の仲間である英俊だった。
 彼は悠遠に断りも入れず、彼女のすぐ隣に腰を下ろしながら訊ねた。
「悠遠、ここ最近ろくに休んでいないだろう。たまの夜くらい疲れを癒したらどうだ」
「おまえには言われたくない。非番の夜など、まともに休んだことがないだろうが」
 英俊の夜は忙しい。彼にとって、夜とは刃音と血臭か、嬌声と脂粉のどちらかに彩られるのが常なのだ。暇な時など、なきに等しい。そのまま忙殺されようが悩殺されようが勝手にしろ、というのが悠遠の本音である。
 しかし英俊は、わざとらしく頭を掻いて照れくさそうに振る舞いながら、軽口を叩いてみせる。
「その分、心ゆくまでしっかり癒されてるからな。そんなに心配してくれなくても大丈夫だ」
「影鬼の長たる者が過労で倒れたなどと言われても困るからな。人のことより自分の身を案じていろ」
 精一杯のいたわりの言葉にしては味気も色気もないと英俊は思ったが、あえて言わなかった。口に出せば、いっそう怒りを買うことは目に見えている。
「それにしても悠遠、こんなところで何をしているんだ? 天子に夜這いでもかける気か」
「そんな馬鹿はおまえだけだ」
「冗談を言うな。俺は男に手を出さなければならないほど可哀想な人間ではないぞ」
 悠遠はそういう意味で言ったわけではないのだが、英俊はやけに堂々と胸を張って主張した。いちいち正すのも馬鹿馬鹿しいので、訂正してやる気にはならないが。
 悠遠は大きく溜息を吐き出すと、不意に別のことを口にした。
「……本当に天子はここにいるのか?」
 その問いに、それまで無駄に軽口をたたいていた英俊の表情がにわかに引き締まった。だが顔を背けていた悠遠は、そのわずかな変化に気づかぬまま続ける。
「兇星に指令を与えているのは天子なんだろう? それなら私たちの真の雇い主は天子ということだ。なのに一度も姿を見せないなんて不公平ではないか」
 彼女がそう不平をこぼすと、引き締められていた英俊の口元から一気に笑い声が吹き出した。
「何がおかしい」
「何がって……そんな、天子と平等な人間なんてこの世にいるわけがないだろう」
 あまりの爆笑ぶりに、悠遠からにらみつけられても、英俊はまだ笑いながら目に涙まで浮かべている。
 そのふざけた態度に、悠遠は眉間に深い皺を寄せて再び溜息をついた。
「天子とはいいご身分だな。自分では直接手を下さずに、何でも好きなことができて」
 そう独り言のように呟くと、英俊はようやく笑いを収め、笑い泣きしていた眼を細めて悠遠を見下ろした。
「――さあ、それはどうかな」
「……どういう意味だ?」
 いくら何でも、今度ばかりは態度の変化に気づかないはずがない。瞬きをしながら聞き返す悠遠に、しかし英俊はまともに取り合おうとしなかった。
「子供はまだわからなくてよろしい」
「なっ」
「さあさあ、早く寝て明日に備えろよ。どうせまた、くだらない雑用が待ってるんだからな」
「…………」
 悠遠としては心ゆくまで反論を浴びせたいところだったが、「明朝一番に指令を与える」という鬼畜上司の言葉を思い出し、憮然としながら口を閉ざした。
 そして怒りに任せて立ち上がると、無言のまま屋根から身軽に飛び降りた。
 この国で最も高いとされる渡月宮は、最上階から地上を見下ろしただけで目眩を起こす者さえ稀ではない。それを、月光だけが照らす宵闇の中、段違いの屋根を軽々と跳び越しながら降りるなど、並大抵の人間にはできない芸当だ。
 ――これが、いくら否定しようとも《影》に染まった者の証。
 次第に小さくなって闇に溶けてゆく少女の背中を見送ると、彼の足元から軽やかな楽の音が響いてきた。琵琶、二胡、箏、揚琴といった様々な弦の調べに、幾層もの笛の音が唱和する。
 恐らく、真下の渡月宮で管弦の宴が始まったのだろう。ここに暮らすのが何者かを知っている英俊は、この宴の主催者も簡単に想像できた。
「……いい気なものだ」
 小さく吐き捨てて、彼は天を振り仰ぐ。漆黒の空には、淡く輝く月が浮かんでいた。
 今宵は、満ちゆく途次の十三夜。
 すなわちこの夜に開かれているのは、満月を呼ぶための喚月の宴である。毎夜祈りを捧げるほど、満ちた月はこの国に多大な力を与えている――そう信じられているのだ。
「盈の月、か……」
 眩しいほど白々とした月を見つめながら、英俊はそっとつぶやく。
 盈とは満月、そしてこの国そのものを指す字でもある。盈という国号は、弓を引き絞ったように満ちた月を表してつけられたものだという。だが、満ちた月は必ず欠ける。盛はいつしか衰へと移ろい、盈の次には虚が訪れるのだ。
「欠け始めるのはいつのことかな」
 自嘲ともつかないかすかな笑みをこぼして、英俊もまた屋根を跳び越えた。
 再び《影》の顔に戻るために。





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