第一章 幻月


 同じ月を仰ぎながら、軽やかな音色に興じる者もあれば、不快げに顔をしかめる者もあった。
「まったく、気楽に楽など奏でている場合か」
 書局の片隅で、一人の官吏が苦々しげに吐き捨てた。
「楊丞殿、そのようなお言葉を誰かに聞きとがめられたらどうするのです」
 その斜め後ろで、もう一人の官吏が眉をひそめて彼を諌める。だが、楊丞と呼ばれた男は、その態度を改めるどころか、いっそう不遜に鼻を鳴らした。
「ふん、この程度の苦言が聞こえるわけがないだろう。何しろ阿諛追従(あゆついしょう)に忙しい輩は皆、楽の音に聴き惚れているだろうからな」
 いっこうに不敬極まる発言をやめようとしない彼に、部下の官吏は溜息をついてうなだれた。
 楊丞と呼ばれる彼は現在、秘書省の丞(じょう)たる官位を拝命している。従五品上という位階は決して低くはないが、彼にとっては不本意極まった。というのも、彼はもともと戸部郎中という官名を授けられていたからなのだ。戸部郎中も秘書丞も、位としてはどちらも同じ従五品上だが、前者は財務を司るのに対し、後者は書籍の編纂作業を主とするという大きな違いがある。
 もちろん、彼自身も国家の重要文書の編集を疎かにする気はないが、ついこの前まで第一線で活動していただけに、不満は大きい。
 それというのも先日、彼はたまりかねてとうとう財政緊縮を諫言したのだが、その案が受け入れられるどころか、翌日には紙一枚で秘書省への配置換えを命じられたのだ。いくら位階はそのままとはいえ、誰の目にも明らかな左遷だった。
「……あの女がいる限り、この国は傾く一方だぞ」
 高くそびえる楼閣を忌々しげににらみつけながら、彼は小さくつぶやいた。
「楊丞殿……っ! 言葉が過ぎます!」
 さすがにこの台詞には、部下も黙っていられなかった。楊秘書丞が指す「あの女」とは、国母たる太后その人なのだから。
 だが、彼にとってはそう呼び捨てても余りあった。そもそも彼が財政の引き締めを提議せざるを得なかったのも、太后の浪費癖が目に余るせいなのだから。
「渡月宮の増改築くらいならまだいい。この盈国にとって最も重要な祭事を行う楼閣だからな。それに見合うだけの外観を整える必要はあるだろう。だが、それから次々にくだらぬ建造ばかり繰り返し、挙げ句の果てには年がら年中、宴の行幸に出歩くのはいったい何のためだ!」
 どん、と彼は書台を拳で叩いた。その剣幕に、部下はびくりと肩を震わせる。
 「月の巫女」たる太后は、地上で最も月に近いとされる渡月宮の他に、似たような観月楼を各州の州府近くに建てさせた。そうした上で、行幸の際には必ず各州の観月楼に篭もり、新月から満月までの十五日間、喚月の宴を行いながら過ごすのだ。そして太后のそばには必ず、息子たる天子の姿がある。――月の加護を授けるため、巫女は常に天子のそばにはべらねばならないからだ。
 巫女が他州で宴に興じれば、天子も必ず同行する。これでは政務どころではないだろう。
「特に、あの阮少卿と来たら……! さらに各州の観月楼を増やせだと? 正気の沙汰ではない!」
 楊丞の額には青筋が浮き出ている。若いだけに怒りが噴き出れば収まりがつかないらしい。
 彼の怒りは、今日の朝議も原因の一つとなっていた。何と、太陰府の次官に過ぎない阮少卿が、長官を差し置いてとんでもない提言をしたのだ。
 それが、各州の観月楼をさらに建ててはどうかというものだったのだ。もちろん月の恩恵にあずかる天子は賛成した――というより、どうせ太后がそう言わせたのだが。
 いったい、彼らはどこから金が出てくると思っているのだろうか? つい先日まで戸部で財務を担当していただけに、彼の苛立ちはいっそう増す。だが、左遷された身では異議を唱えることなどできない。その代わり、人目につかないこの場所で発散させているのだった。
「よ、楊丞殿……ど、どうかお静かに……」
 部下は今にも泣き出しそうな顔でなだめようとした。こんな発言が誰かの耳に入れば、楊秘書丞だけでなく、居合わせた自分も同罪と見なされてしまうだろう。
 不敬発言に怯える部下の様子に、彼は冷たい視線を向けた。
「宴だけに飽き足らず、毎日毎度常軌を逸した美食三昧……このままでは盈は文字通り食い潰されてしまうぞ」
 もはや部下はこれ以上、彼の暴言を聞いてはいなかった。このまま同じ室内にいれば、誰に何を讒言されるかわかったものではない。左遷された人間の恨み言になど、付き合ってはいられなかった。
 そうして部下が退室の挨拶もろくにしないまま去ってゆくのを、楊秘書丞は止めようとしなかった。いくら八つ当たりしようと、彼の鬱憤はこの程度で晴らせるはずもない。もともと自分は出世株だという自負があっただけに、こんな宮城の片隅の書局あたりに篭もることは性に合わないのだ。一方で秘書省に長く勤める者は、たいていが出世とは無縁な輩。自分の憂き目など理解できないだろうと彼は端から相手にしていなかった。
 それでも職務怠慢を理由に官位まで下げられてしまっては、もはや恥の重みで立ち上がれないだろう。そう何とか思い直し、彼は墨の乾いた筆をようやく手に取った。特に満月の前日は天子による総覧があるので、明朝までに必要な書簡を整えなければならないのだ。愚痴と罵倒に熱中している場合ではない。
 すり始めた墨が、ほど良い濃さまで色づいてきた頃。彼は周囲の異変に気づいた。
 ようやく、と言うべきだったろう。普段であればもう少し早くに察知できたかもしれない。しかし彼はその時、様々な思念にとらわれており、さらにはすったばかりの墨の臭いが辺りに漂っていたことが不幸を招いた。
 墨独特の濃厚な臭気に混じって、今まで嗅いだことのない不思議な香りが彼の鼻をくすぐった。そうと気づいたその時、彼は右手に痺れを感じた。
「な……っ!?」
 右手の不具合をいぶかる声すら、まともに出せない。人を呼ぼうにも、頭に靄がかかったような感覚に陥り、口を開くこともままならない。
 何かを求めるように伸ばされた手は、やがてだらりと垂れ下がる。右手からこぼれ落ち、床に点々と黒い染みをつけて転がる筆が、二度と主の手に握られることはなかった。





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