第一章 幻月


 翌朝、まだ日の昇りきらない早い時刻から、影鬼一隊の四人は直属上司に召集された。
「日の出前からのお召しとは珍しいですわね」
 彼らの中で真っ先に口を開いたのは、これまた珍しい怜悧だった。今まで彼女は自ら進んで兇星と口をきくようなことはなく、できる限り関わらないようにしていたため、隣で聞いていた悠遠は面食らってしまった。
 一方の兇星はと言えば、朝でも御簾越しの対面には変わりがないが、その奥でどうやら怜悧の発言に戸惑っているらしかった。それでも一つ咳払いをして居住まいを正すと、兇星はいつもの冷然とした口調で話し始めた。
「おぬしらには別の指令を与える予定であったが、事情が変わった。先刻、秘書省の書局で一人の官吏が変死体で発見されたのだ」
 死亡していたのは楊秘書丞。生真面目で通っている彼が一晩経っても官邸に戻らないため、不審に思って捜しに行った同僚により発見されたのだという。死亡時刻は夜半過ぎのようで、発見時には完全に冷たくなっていた。
 目立った外傷はなかったが、もともと持病もなく、また死体の顔が青黒く変色していたことから、少なくとも自然死とは考えられない。だがこれが殺人だとすれば、誰が、どのような手口を使ったのかを調べなければ、国の要たる朝廷に不穏な影を落としたままになってしまう。
「そこで《影》には、この事件の真相を探ってもらいたい」
 兇星がそう切り出すと、影鬼を統率する英俊は小さく笑った。
「歓月の夜に変死体とは、穏やかではないようですな」
 英俊は不遜な態度を改めるどころか、少しも隠そうとしない。だが慣れたもので、兇星もいちいち目くじらを立てることなく、淡々と受け流す。
「宴のさなかだそうだから、なおのことな。犯人を挙げよと太陰府は躍起になっているようだ。生きている楊丞を最後に目撃した部下を締め上げて吐かせようとしている」
 太陰府は月の祭事全般を執り行う部署であり、月の宴が凶事により穢されたとなれば責任問題にも発展しかねない。誰でもいいから犯人さえ挙げられればよし、というのが実情だろう。
「でしたら、それでも構わないのでは? 『犯人』が見つかれば、朝廷は今まで通りに落ち着きを取り戻すでしょうに」
「お、おい、英俊!」
 隣の英俊の台詞に、それまで二人の会話を黙って聞いていた悠遠が、戸惑いと苛立ちの声を上げた。
「おまえは犯人をでっち上げろというのか!? 宮中で、しかも上司を殺したとなれば、死罪は免れないんだぞ? 朝廷が落ち着けばいいというものじゃないだろうが!」
「――と悠遠は申しているようだが、いかがかな?」
 たまらず怒声を上げた悠遠の後をついで、兇星は面白がるような声で英俊に水を向ける。
 不本意な展開に、英俊は苦々しい表情でつぶやいた。
「……まったく、おまえは余計な口を挟まなくていいんだよ。こき使われるのが嫌なんじゃなかったのか?」
「それとこれとは別だろう! 人の命が懸かってるんだぞ!」
「お、おれだって、無実の罪で誰かが殺されるのを黙って見てるのは嫌だぞ!」
 それまで無言で控えていた閃火も、ここぞとばかりに同意を示した。その目には、英俊の冷たい態度を責める色が明らかに浮かび上がっている。
「どいつもこいつも本当に……」
 英俊はいっそう苦い顔で舌打ちした。まったく、これだから子供は扱いにくい――その言葉を飲み込んで、気だるげに大きく息を吐く。
「それで、わたくしたちは具体的にどう動けばよろしいのですか?」
「あっ怜悧、おまえまで!」
 いつも冷徹な態度を貫く怜悧まで兇星に加担したため、さすがの英俊も慌てた。だが、怜悧はついと顔を背け、それ以上は取り合おうとしなかった。
 英俊が孤立無援になったのを確認すると、兇星はいつものようにもったいぶった口調で命令を下した。
「細部に関しては、すべてそなたたちに一任する」
 それだけ言うと、兇星は影鬼四人を下がらせた。昨晩のように一人だけ居残りを命じられずに済んでほっとした反面、悠遠は少なからず違和感を覚えた。拍子抜け、と言ったほうがより近いかもしれない。
 無論、何かを期待していたわけではない。そもそも嫌いな人間から言い寄られて嬉しいはずもないのだが、いつもと違うことが何か予兆のようなものを感じさせたのだ。――考えすぎという可能性も充分にはあるものの。
 不可解な表情を浮かべたまま、悠遠は後ろを振り返る。たとえ昼間でも、御簾に隔たれた向こうは何一つ窺い知ることができない。首を傾げながら、彼女は仲間たちとともにその場を後にした。


 四人の影鬼は房舎に戻った。そこは禁城の敷地内に存在するのだが、宮中に暮らす人間にさえまったく知られていない。詳細な宮中見取り図を持って上空から注意深く見下ろさない限り、決して誰も気づかないだろう。そこは壁と壁の間を利用した隠舎になっているのだ。まさに建物の隙間に巣食う《影》らしく。
 唯一の出入り口は、彼らの直属上司が「兇星」の名で出入りする房にのみ造られており、まるで兇星に飼われた籠の鳥のようなものである。無論、兇星も普段いつも自室にいるわけではないので、出入りは自由にできる。
 その密かに隠された房舎で、彼らは今回の仕事の打ち合わせを始めた。
「死んだのが楊丞ということは、その黒幕はまず太后派の誰かと見て間違いないだろう」
 そう切り出したのは英俊だった。
「なぜそう言い切れる?」
 断定的な物言いに悠遠が訝しむと、英俊は軽く肩をすくめた。
「邪魔だからさ。――奴らのな」
 現在、朝廷は大きく二つの派閥に分かれている。至上の位にあるのはもちろん天子だが、実権を握っているのは「月の巫女」こと太后だ。それは天子が母后の言いなりになって、月の宴のために行幸し、遊興にふけっているという現状を見れば誰の目にも明らかである。
 月の恩恵にあずかるこの国で、「月の巫女」の位は途方もなく高い。その高貴な巫女に政治的な実権を与えれば、それを牽制できる者はこの世に存在しないことになってしまう。
 だからこそ政権を地上の主たる天子に取り戻し、世の理を正そうとしているのが「清新派」の官吏たちである。もちろん、表立ってそう名乗ることなどできないが、彼らは自分たちを、わずかに残された宮中の良心であると自負していた。
「その清新派の急先鋒が、死んだ楊丞ってわけさ」
「邪魔だからって、そんなに簡単に殺したりするのかよ?」
 閃火の問いに、英俊は小さく笑っただけで答えようとはしなかった。――彼はまだ若い。いずれ嫌でもわかる時が来るだろう。
「それで、わたくしたちは太后派の誰を探ればよろしいんですの?」
 横からそう口を挟む怜悧に、相変わらず飲み込みが早いと感心しながら、英俊は答えた。
「まだはっきりしたことはわからん。ひとまず怜悧と閃火は宮廷の動きを探って、怪しい奴の目星をつけてくれ」
「ずいぶんと大雑把な捜査だな」
 閃火が横槍を入れると、計画にけちをつけられた英俊はわざとらしく溜息をついた。
「仕方がないだろう。太后派の主立った人間と言えば、まずは阮少卿なんだからな」
「だったらその阮少卿を探ればいいだろ?」
 軽く放った閃火の言葉に、苛立った声を上げたのは怜悧だった。
「誰のせいだと思っているんですの? 昨晩あなたが倒れたせいで、わたくしたちは姿を目撃されておりますのよ。それに、しばらくは警護も厳しくなっているはずですわ。そんな中、阮少卿の身辺を探れますの? だというのに、なぜあなたは深刻に受け止められないんですの!」
「べ、別に、おれはそんなつもりじゃ……」
 怜悧になじられ、閃火は口ごもってしまった。どだい、怜悧に反論などできるはずもない。特に閃火なら、なおさらのこと。
 だが、怜悧の発言はやや不条理でもある。彼らが目撃されたのは閃火が倒れる前だったのだが、怜悧はその辺りのことをあっさり無視している。そして、それを指摘するほど無謀な者は、この場にいない。
「大丈夫だって! 今度はへましないからさ!」
「さあ、どうですかしらね」
 一刀両断。意気込む少年の情熱も、瞬時に凍りつくほどの冷たさである。しかし、それでも閃火は懲りずにへらへらと笑みを浮かべている。
 閃火は怜悧と一緒に行動できることが嬉しいのだ。あからさますぎる態度のせいで、誰もが彼の心情を察していたが、当の怜悧がこのありさまでは進展など望めそうにもなかった。
「というわけで、二人が捜査している間、俺は楊丞の身辺を探ってみる」
 まとめに入った英俊に、悠遠は重要な質問を投げかけた。
「で、私は?」
「おまえは鬼才に会いに行け」
「は!? なぜ私が一人で鬼才に会わねばならないんだ!」
「すまんな、悠遠。俺と離れるのが辛いのはわかるが――」
「事実を歪めた解釈はよせ! そうでなく、なぜ鬼才と会う必要があるんだ?」
 悠遠は勢い込んで詰め寄った。
 冗談ではない。ただでさえ自ら鬼才などと名乗る異常者と向かい合いたくもないというのに、よりによって二人きりで会えとは何事だ。
 しかし英俊はその指示を取り下げようとはしなかった。顔を紅潮させて責め立てる悠遠の肩を軽く叩きながら、何とかなだめようと努める。
「俺が決めたんじゃない。先方が会いたがっている。それも熱烈にな」
「あの爺め、いつも勝手なことばかり……!」
 悠遠は苦々しく吐き捨てたが、拒否するわけにはいかなかった。あちらの希望というなら、従わねばならない。それが《影》の務めなのだから。
「じゃあな、悠遠。――健闘を祈る」
「おまえこそ、女官に気を取られてぼろを出すなよ」
「涙が出そうなほど温かな声援をありがとうよ」
 口の端に笑みを浮かべながら、英俊は背を向けた。影鬼にとって、これ以上の討議は必要ない。方針を決めた後は、各々が自分の勘と才覚を頼りに判断し、行動する。これが彼らの流儀だった。
 全身から不満と不機嫌を発しながら房舎を出てゆく悠遠を見やりながら、英俊は小さくつぶやいた。
「それにしても鬼才……何を企んでいる……?」
 理解不能な相手であることは、充分すぎるほど承知している。それでもなお、胸の奥に残る疑念は消しようもなかった。






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