第一章 幻月


 まるで両足に鉛を巻きつけているかのような足取りだった。
 鬼才のもとへ向かう悠遠は、足も心も地面を突き破りそうなほど重かった。もともと鬼才という変人のことを考えただけでも気が重くなるのだから、ましてこれから会うとなれば、全身に多大な荷重がかかるのは当然とも言える。
 足を引きずるように歩きながら、悠遠はふと思い出した。望まぬ境遇に陥った、あの日のことを――


 忌まわしいあの宿命の日――深い闇の中を、悠遠はただうごめいていた。そして異様な音を発しながら、時折決まった一言だけを繰り返し発していた。
「腹、減ったぁー……」
 情けない声と同時に、「ぎゅうぅぅぅ」と蛙を締め上げたような気色の悪い音が鳴り響く。もちろん、それは彼女の腹から生じたものだった。
 ほんの少し前まで、彼女は父親と二人で貧しいながらも平凡な生活をしていた。何事もなければ、そのままただの一庶民としての人生を送っていただろう。しかし、この親子は常人ならぬ非凡さをそれぞれ備えていた。父は金銭感覚に――そして娘は胃袋に。
 悠遠は「食費がかかる」という理由で、実の父親から売り払われてしまったのだ。確かに彼女は普通の少女の軽く十倍、並みの男の五倍くらいの量は常に平らげる。だが、だからと言って本当に売り払う父親がどこにいる、と悠遠は悔しさに唇を噛みしめた。二人きりの家族なのだから、その分怠けずに働けばよいではないか、と。
 しかし父は勤勉さより安逸を求めた。家を訪ねてきた見知らぬ男たちに金品を差し出され、あっさりと手放したのだ。
「何が達者で暮らせ、いいものを食わせてもらえ、だ……! あのくそ親父!!」
 暗闇の中で、悠遠は忌々しくうめいた。本来ならわめき散らしたいところなのだが、極度の空腹が彼女の大声を阻止していた。
 というのも、血迷った父親に売られた後、彼女はこの場所に閉じ込められて、いっさい食事を摂っていなかったのだ。やたらと頑丈な上、さらに外から閂をかけられた扉は、少女の力ではどうすることもできない。しかも明かり取りの窓一つないため、監禁されてから何日経ったのかもわからなかった。
 悠遠は寝転んだまま、鳴り止まない腹の虫を何とかなだめようと、弱々しくなでた。
「……奴ら、何のためにこんなところへ連れてきたんだ……?」
 そのつぶやきに答える者はいない。それでも彼女はそう問わずにはいられなかった。
 だいたい若い娘を「買い上げる」となれば、その用途など知れている。行き先が女郎屋であろうと異国であろうと、とにかく殺してしまっては元も子もない。そのはずなのに、彼女をここへ押し込んだ者たちは、どうにも餓死させたがっているとしか思えなかった。
 房(へや)の片隅に水甕だけは用意されていたが、それを注ぎ足しに来る様子もなく、まして食事はいっさい与えられない。万一のことを考えて、悠遠は水を少しずつ飲んで最低限の渇きを癒すように努めていたが、もはやそれも限界だった。
「この際、蛇でも鼠でも何でもいいから出てこないかな……」
 冷たい床に、ごろりと寝転んで悠遠は小さくつぶやいた。しかしずいぶん念入りに密閉されたこの房は、残念なことに自分以外の生き物が出入りする気配はなかった。
 幸い、季節は暖かな初夏なので、夜具一つなくても凍え死ぬことはなかったが、あと丸一日も経てば間違いなく飢え死にするだろう。
 立ち上がる気力すら失せ、地面に横たわったままじっとしていた悠遠は、にわかに体を緊張させた。冷たい石の床を通して、何者かの足音が近づいてきていることに気づいたのだ。
 そして次の瞬間、彼女は久々に光を見た。
「まだ生きているようだな」
 低く押し出されたその声で、悠遠は扉を開けたのは男だろうと見当をつけた。長く暗闇に閉じ込められていたため、にわかに差し込む光が眩しすぎて、彼女の視界は真っ白になっていたのだ。
 だが、役に立たない視覚よりも活躍したのは嗅覚だった。光と同時に侵入してきたものを正確に読み取って、彼女は飢えた体で飛び上がった。
「飯!? どこだっ、早く食わせろ!」
 そう叫ぶと、室内に入ってきた男に悠遠は詰め寄った。監禁されていた少女を冷然と見下ろしていた男は、弱っているはずの相手に逆に胸倉をつかまれ、虚を突かれたようだった。
 それでも威厳を保とうと、男は少女の手をすげなく振り払うと、挙げた右手で指を鳴らした。
 その合図によって、料理を手に持った女たちがぞろぞろと狭い室内に入ってきた。見た目も匂いも、それらがすべて驚くほど高級であることを示している。しかもみな、三人前は入りそうな大皿に山盛りにされているのだ。
 それらが床に並べられると、男はおもむろに口を開いた。
「好きなだけ食べるがいい」
 男の言葉を待つまでもなく、悠遠は皿に飛びついていた。匙を手に持つ余裕すらなく、まず取りかかった汁物は、深皿に直接口をつけて一気に飲み干した。灯火に照らし出された色とりどりの前菜も、ほとんど流し込むようにして、あっという間に腹に収めてしまう。普通の少女が、常識的な量の食事を摂るだけの時間に、彼女は山盛りだった大皿十二枚をすべて空にしてしまった。神速と呼んでも良いほどの鮮やかな手際である。
 唇についた脂を手の甲で拭いながら、悠遠はようやく顔を上げた。そして、その時初めて彼女は、自分をじっと見つめるその男とまともに向かい合った。
 男の目には、驚嘆と感嘆と――そしてなぜか哀れむような色が浮かんでいた。
 しばし二人は無言のまま、空になった皿を挟んで見つめ合った。その態勢を崩したのは、にわかに室内に響く足音だった。
「どうやら合格のようじゃな、兇星どの」
 こつ、こつ、と硬い靴音を鳴らしてゆっくり近づいてきたのは、小柄な老人だった。
 老人――なのだろう、恐らく。
 顔中を白い髭が覆っているため、実際の年齢は計り知れなかったが、やたら泰然とした態度と年寄りじみた口調から、そうなのだろうと悠遠は推測した。腹を満足させたため、その程度の観察をする余裕も生まれていた。
「ええ、そうですね――紛れもなく」
 兇星と呼ばれた男が、再び悠遠に視線を送る。その目つきは、彼女の腹の中まで見透かしているかのように鋭い。居心地の悪さを覚えて、悠遠はびくりと肩を震わした。
 ――合格とは何のことだ?
 ――こいつらはいったい何者だ?
 ――これから自分をどうするつもりだ?
 疑問ばかりが脳内を占める。しかし、その問いを発しようにも、彼女の意識は次第に混濁してきた。
 朦朧とする視界に、ぼうと青白い光が浮かび上がった。細めた目に映ったのは、地上に輝く下弦の月。――そうと見えたのは、老人が手にした半月形の鏡だった。
 顔より二回りほど大きな半月鏡の表面は漣のように揺れながら、その光彩はさらに強さを増してくる。眩しさに思わず目を閉じかけたその時、彼女の意識は闇に呑まれた……。


「……浮かない顔をしておるようじゃな、悠遠」
 聞きたくもない声に鼓膜をたたかれ、はっと悠遠は我に返った。
「いえ、少し考え事をしていただけです」
 思い出したくもない記憶が甦っていたのだとはさすがに言えず、悠遠は適当にごまかした。だが、その返答は逆に相手の妙な関心を引いたようだった。
「おぬしが胃袋の他に使うものを持っていたとは、めでたいことじゃの。恋患いならいつでも相談するがよい。わしがとっておきの薬を調合してやろう」
「…………余計な憶測も協力も無用です。それより早く本題に入っていただけませんか」
 悠遠は憮然と言い放ったが、目の前の老人は白髭に埋もれた口を大きく開けて、さも楽しげに笑ってみせた。
 この老人こそが羅鬼才――売り払われた悠遠に「合格」の判定を下した張本人である。
「何、そう急くでない。おぬしはまだ若い。そう焦らずとも充分時間があるじゃろう」
 だったらあんたは老い先短いだろうが、と思ったが、口にすることはできなかった。
「ほれ、手が止まっておるではないか。遠慮せずに好きなだけ食べるがよい。おぬしのためにわざわざ用意したのじゃからな」
 鬼才が手をひらひらと振って促す卓上には、豪勢な料理が所狭しと並べられている。――まるであの忌まわしい日と同じように。
 「合格」の太鼓判を押され、不本意な日々の始まりとなったことを思い出し、悠遠は決して手をつけようとせず、青茶にのみ口をつけた。焼きたての肉の匂いにも負けず、疑惑の視線をまっすぐ向ける悠遠に、鬼才は明るく笑ってみせる。
「ふぉふぉふぉ、警戒せずともよい。おぬしに毒など無意味じゃよ」
「誰も毒入りだとは言ってませんが――」
「いや、毒は入っておるがの」
 あっさりとした台詞の意味を、悠遠は一瞬理解できなかった。
 驚愕は遅れてやってくる。そして彼女は目を見開いたまま、凍りついた。
「……………………は?」
「だから、毒は入っておると言ったじゃろうが。無論、その茶にもじゃ。まあ、心配は無用じゃよ。おぬしの胃袋にはどうせ効かぬからの」
「ふ、ふざけるなぁぁっ! 人に何を飲ませるんだ、このクソジジイ!」
 もはや理性は吹き飛んだ。卓に叩きつけられた湯呑みから、まだ湯気の沸き出る青茶がはじけ飛ぶ。
 冗談ではない。本当に、本気でこの老人は自分を殺すつもりなのか?
「何って、だから毒と言っとるじゃろう」
「誰がそんなことを訊いてるか!」
 悠遠は胸倉をつかもうと手を伸ばしたが、鬼才は老人とは思えぬほど軽やかによける。そして、空をつかんだ彼女の手を、ご丁寧にも杖でぺしっと叩いてみせた。
「動揺するでない、未熟者め。焦りが隙を生むと教えたのを忘れたか」
 毅然とした声に、悠遠は我に返った。忘れていたのは教えではない。この老人が、見た目とかけ離れた力を内包しているという事実だった。
「……では、毒は入っていないのですね」
 ひとまず彼女は安堵の息をついた。さすがにそこまで馬鹿なことはしないだろう。そう思ったのも束の間、
「いや、毒入りじゃ」
「おいこら待て」
 いったい何のつもりなのだ。再び詰め寄ろうとする悠遠に、鬼才は先んじて軽やかな台詞を吐く。
「なぁに、おぬしには効かんよ。そうでなければ『合格』して、ここにいるはずもないじゃろう」
「まさか……まさかあの時の料理にも毒が入ってたのか!?」
 血の気の引いてゆく悠遠に、鬼才はさらに追い討ちをかけるようなことを言う。
「言っておくがの、極度の空腹状態であれだけ大量の、しかも重い食事を一気に摂れば、普通はあの世行きじゃよ。しかも毒が入っておる」
「やっぱり毒を盛ってたんだろうが!」
「とにかく生きているのだから問題なかろう。それどころか、どんどん強い毒を与えてもぴんぴんしておるではないか。今さら毒茶をすすった程度で怯えるでない。安心せい」
 いったい何が問題ないのか教えてもらいたい。どこの世界に毒を盛られて安心する馬鹿がいると言うのだ。
 悠遠から鋭くねめつけられた鬼才はしかし、予想もしない答えを返した。
「おぬしのその才は、月の加護に浴する者の特権じゃ。せいぜい大事にするが良い」
「月の……加護?」
 聞き慣れぬ言葉に、悠遠は眉をひそめた。
 すると鬼才はゆっくり頷き、もったいぶって口を開く。
「この国は月の力によって保たれている。それがなぜか、おぬしにはわかるかの?」
「初代の天子が月の守護を得て蛮族を討ち滅ぼし、今の盈を建てたから……と聞きましたが」
 意外な質問に、悠遠は瞬きを繰り返しながら答える。すでにこの時、彼女は完全に調子を狂わされていた。怒りの矛先を口先一つで捻じ曲げられているのだが、本人はそのことにまだ気づいていない。
 こうして悠遠の注意をそらすことに成功した鬼才は、白い髭に埋もれた口を悠然と動かし始めた。
「それもある。確かにな。そう……すべてはそこから始まったのじゃ」
 興祖と謚(おくりな)される初代の天子は、それまで国土を縦横無尽に荒らしていた北方民族を撃退し、多数に分かれていた部族を統一して現在の盈国の礎を築いた。以後、今上に至るまでの十二代の間に、版図は倍近くにも膨れ上がった。
「そして歳月を経るにつれ、国の陰陽の均衡は乱れてゆく一方であった」
 興祖は異民族討伐の際、月台に供物を捧げて戦に臨んだ。その時彼は、自分が玉座に進めば末代まで月を崇めることを誓ったのだ。
 こうして帝室には月から受ける陰の気が満ちた。代を重ねれば重ねるほど、その力は色濃く反映された。
「今や天子は、月の光を浴びねば命を繋ぎ止めることも難しいのじゃ。天に最も近い渡月宮を建て、毎晩のように歓月の宴を開くのも、ゆえあってのこと。無論、先祖が撒いた種ではあるがの」
 鬼才の言葉は、高位を冠する廷臣とは思えぬほど手厳しい。しかも彼は三公の一人、羅太師と呼ばれるほどの存在なのだ。
「……それは不敬発言ではないのか?」
 悠遠の問いに、鬼才は喉を鳴らして笑う。
「闇に生きる《影》のそなたが、そんな台詞を吐くとはの。しかし事実なのじゃから仕方あるまい。実際、帝室は陰気を受けすぎて、明らかに弱体化しておる」
「弱体化……だと?」
「ここ三代の間、天子の御子は女児ばかりじゃ。かろうじて末に誕生した、ただ一人の太子が玉座を受け継いではおるが、次代はさてどうじゃろうな」
「本当に女ばかりなのか? 天子の御子といえば、かなりの数になるのではないか?」
「そうとも。三代の間に生まれた御子、合わせて八十一人にも及ぶが、男子は三人のみ。それも最後の最後に末子としてようやく、じゃ」
 特に先代の天子は四十三人もの御子をもうけたが、そのすべてが女児だった。男児を授かるという怪しげな薬や祈祷は片っ端から試し、ついには男児五人を出産した経験のある人妻まで後宮に迎え入れたが、どうしても太子には恵まれなかった。
 暗澹たる思いに駆られていた先帝は、いっそう月の慰めを必要とした。月の宴は雨夜でさえも開かれ、ついには月の巫女を求めるに至った。「月の巫女」は、月の加護を受ける盈国にとって最も尊貴な身とされる。巫女である以上、もちろん婚姻は許されない。にも関わらず、先帝は月の巫女を求めた。巫女の力を得なければ、もはや命を永らえることもままならぬほど衰えていたのだ。代を重ね、陰の気を濃く受け継いでいたがために。
 周囲の反対を押し切って手に入れた月の巫女は、驚くべきことに男児を出産した。四十四番目の末子、これが現在の天子である。
「天上の力と地上の位を同時に得た巫女に、逆らえる者などおらぬよ。まあ、そもそもこの国の興りが月の力によるものじゃから、必然の結果と言えるかもしれんがの。こうして陰気に染まりすぎたこの国は、もはや陰陽の均衡など完全に崩壊しておる。止めようもないほどにの」
「月の……せいで、陰気が強まっているということなのか……?」
「陰と陽、どちらが強すぎてもこの世の和は乱されるのじゃ。もし生まれてくる赤子が女ばかりになれば、いずれ国は滅びるじゃろう」
 悠遠は鬼才の言葉を何とか納得しようと努めたが、どうしても一つ腑に落ちなかった。
「では、なぜ私が月の加護を得ていると……?」
「その答えはそなた自身が見つけるのじゃ」
 それだけ言うと、鬼才は悠遠を室外へと促した。これ以上の質問は決して受け付けないとでも言うように。
 結局、悠遠は疑問を渋々飲み下しながら、人目につかぬように回廊を去ることしかできなかった。





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