第一章 幻月


 宮中の回廊を、颯爽と歩く一人の青年がいた。無位を示す黒の官袍に身を包んでいるが、その眼差しには一分の隙もなく、見る者が見れば下官に甘んじていることを不思議に思っただろう。
 人気のない回廊を歩きながら、青年官吏は小さくつぶやいた。
「まったく、人が一人殺されたばかりだというのに、警戒心の欠片もないな」
 声の主は、官吏に化けた英俊である。その姿は実に堂々としていて、誰が見てもよそ者とは疑いもしないだろう。そもそも彼は、高貴な生まれであると言っても通じてしまう風貌の持ち主なので、貴族の集まる宮中をうろついていても、怪しまれる可能性は実に低いのだ。
 英俊の目的は、怪死を遂げた楊丞の死因を調べることである。外傷がないという報告はすでに受けていたので、彼は毒殺の可能性が高いと考えていた。それで、証拠を見つけるために彼は宮中に潜入したのだった。
 もちろん《影》として音もなく忍び込むことはたやすい。だが、今回は宮中の噂を集めるという目的も兼ねているため、面倒でも官吏に化ける必要があったのだ。
 まず彼が向かったのは、楊丞の死体が発見された秘書省の書局である。遺品を引き取りに来たという名目で訪れたのだが、当の秘書省は驚くほど閑散としていた。
「今日はずいぶんと人が少ないようですね」
 執務室に一人残っていた官吏に声をかけると、相手は怯えたような表情を浮かべた。
「え、ええ、何しろ急なことで……その、もともと人の少ない部署ですのに、みな事情説明やら何やらで出払ってしまいまして……」
 話を聞くと、長官である秘書監は天子から直々に下問があり、同僚たちもまた事情聴取のために呼び出されているのだという。
 お蔭で人目を気にする必要はなくなったが、逆に噂を集めるのは難しくなった、と英俊は少し落胆した。これではわざわざ官袍など着た意味がない。
「聴取といえば、最後に楊丞を見たという下官が嫌疑をかけられているようですが?」
 それでもせめて何か聞き出そうと、英俊はそれとなく水を向けた。だが、返ってきた答えは彼を唖然とさせた。
「あ、あの、それ――私のことなんですが……」
「はあ?」
 常に冷静なはずの英俊でも、思わず頓狂な声を上げてしまった。
 そもそもこんなくだらない調査をするはめになったのは、悠遠や閃火のような未成年たちが「無実の人間が処刑されるのは可哀想だ」などと、ろくでもない義侠心を発揮したせいなのである。だというのに、ここでのんびりと留守番をしているのが、当の「可哀想な無実の人間」だというのか。
 途端に腹が立ったが、ここで感情を表に出してはただの素人である。あえて自然に見える――はずの――作り笑いを浮かべ、英俊は穏やかに話しかけた。
「では嫌疑は晴れたのですね。それは何よりです」
「え、ええ、それは……そうなんですが……」
 いったいこの男はどうしたというのだろう。煮え切らない態度は、何か話すのをためらっている証だ。そのことに気づいた英俊は、あえて背中を押してやることにした。
「どうされました? 亡くなった楊丞のことで、お知りになりたいことでもおありですか?」
 今の英俊は、遺品を引き取りに来た楊丞の知己という役割である。親切そうな顔を見せて、彼はさらに深く追求する。
「あの……楊丞は本当に月の怒りに触れたのでしょうか」
 男は、おずおずと訊ねた。その顔は驚くほど蒼い。
「確かにあの晩……楊丞は喚月の宴に対して不満を漏らされていました。ですが、その程度の不平を口にするのは何も楊丞に限ったことではありません。それなのに……それは本当に死に値するほどの大罪なのでしょうか」
「誰がそのようなことを申されたのです」
 語りながらさらに蒼白になる男に、英俊はさらに訊ねる。
「恐れ多くも太后陛下が卜占された結果、月を穢した罰であるとの託宣を受けたのです。それで私は放免されましたが――しかし、それなら今まで楊丞と同じようなことを口にした者はどうなりますか? 私もまた、月の怒りに触れるのでしょうか!?」
 下官は、まさに必死のていだった。自分もまた楊丞と同じ末路をたどるのではないかと、ひどく怯えているらしい。とにかくまともな会話ができるよう、英俊は何とかなだめなければならなかった。
「どうか――落ち着いてください。本当に月の怒りのせいとは限らないでしょう」
「しかし、託宣は下りました。太陰府はただちに祓禊(はらい)の準備を調えております。月に寛恕を請うため、楊丞の遺体は荼毘に付されます。怒りを鎮めるために、冒涜者の亡骸を煙にして天へ立ち上らせるのだそうです」
「何ですと!?」
 今度ばかりは英俊も愕然とした。まさか昨晩死んだばかりの亡骸を、今朝のうちに火葬してしまうとは。城内に安置してあるだろうと思っていた英俊は大いに慌てた。彼はまだ死体を調べていないのだ。
「楊丞の遺体はどこにあります?」
 表情の厳しくなった英俊に詰め寄られ、下官は息を呑んだ。ただならぬ雰囲気を感じ取ったのだろう、泣き言をやめてすぐに答えようと努めた。
「あ、はい、あの、あれです。その、ちょうど今、煙が立ち上っているところです」
 下官の指差した方角には、峻険さで知られる霊山があった。その、中腹。一筋の煙がゆるゆると風に揺られて天へ上ってゆく。その様を、英俊は顔色をなくしたまま見つめることしかできなかった。
 一歩も二歩も及ばなかった。その思いが胸に去来する。相手は、完全な証拠隠滅をはかったのだ。これでは毒殺を立証する手だてが失われたも同然である。
「――くそっ」
 薄暗い室内で、英俊は力任せに壁をたたいた。
 すでに下官の姿はない。今さらとは思いつつも、英俊は「遺品を引き取る」ため、書局内に一人で足を踏み入れたのだった。そもそもそういう理由で訪れたのだから、何もせずに帰っては疑いを抱かせてしまう。
 だが、今の英俊は捜索などできるような心境ではなかった。
 ――やられた。
 その一言が、英俊の脳内を嵐のように駆けめぐった。
 太陰府――すなわちそれは阮少卿の部署である。恐らくは、影鬼たちが動き出したのを察して、機先を制したのだろう。すでに火葬されてしまっては、もはや死体は調べられない。すなわち毒殺だと断じる手だてを奪われてしまったのだ。
 自分の不手際を呪いながら、英俊はそれでも室内の探索を始めた。もはや遺体を調べられない以上、何か少しでも手がかりを見つけなければならない。もともと乗り気でない仕事だったが、逆に阮少卿あたりに出し抜かれたことで、英俊の自尊心は大いに傷つけられていた。せめて何かをつかんで挽回せねば気が済まなかった。
 彼の目的は、楊丞を実際に殺害した「凶器」である。太后の卜占など、どうせでたらめに決まっている。阮少卿は太后の子飼いなのだから。またそれだけでなく、世間でどう信じられていようと、彼は呪詛で人など殺せないことを充分に知っていた。――直接手を下さなければ、人の命は奪えないということを。だからこそ、《影》が存在しているのだ。
 主を失って、がらんとした書局内を英俊はゆっくりと見回した。楊丞の遺体が運び出された後の室内は、ほぼそのままにされていた。現場保存のためというより、誰もが気味悪がって近寄らず、放置されたためだろう。すでに死体は運び出されているが、痕跡は室内にいくつか見られた。
 床に点々と残された墨の跡。
 これは、楊丞が書き物の最中に絶命したことを示している。楊丞は最近、諫言によって太后の勘気をこうむり左遷されたと聞く。その挽回のために、宴の夜も遅くまで仕事をしていたのだろう。
(まあ、報われなかったわけだがな)
 皮肉に嗤いながら、英俊は床にできた墨の跡を指でなぞって追っていく。その指が、別の染みとぶつかったところで彼は動きを止めた。
「これは……血か」
 床にできた黒い染みは、血を拭き取った跡のようだった。刺されたり殴られたりして飛び散った、飛沫痕ではない。汚れ具合から見て、どうやら吐血したものらしかった。これで毒殺された可能性は非常に高いといえる。
「となると、もしや飲ませたかな?」
 つぶやきながら、英俊は机を見回してみる。しかし、そこに食器類は何一つ残っていない。当然である。犯人がそれをいつまでも置いておくはずもないだろう。それでも何か――例えば毒饅頭の欠片でも見つからないかと、文机の周りを探り始めた。そして。
「これは……?」
 文机のそばの、窓の下。その床板を指でなぞりながら、彼は小さくつぶやいた。
「――さて、あとは鑑定士に任せるとするか」


 房舎に戻ってきた英俊に、怜悧は冷たい目を向けた。
「ということは結局、あの阮少卿にしてやられたわけですのね」
「怜悧、そんな本当のことを言ったら可哀想だろ。いくら英俊でも失敗の一つや二つあるって」
「……おまえらな」
 傷口に塩を塗り込むというのは、まさにこのことだろう。普段から不遜で傲慢な態度を取っている分、しっぺ返しは実に痛い。特に閃火など、意図的に嫌みを言っているとしか思えない。後で泣いても知らんぞ、と英俊は今日の仕打ちを心に刻んだ。
「確かに死体はなかったが、一応気になるものは見つけたんでな」
 そう言いながら、手巾に包んでいたそれを広げて見せると、怜悧はすぐにその意味を覚った。
「……わたくしは犬ではありませんわ。それなのに、臭いを嗅ぎ分けろと言うんですの!?」
 怜悧は眉をひそめて抗議した。英俊は、持ち帰ったその遺留品の「鑑定」を怜悧に頼もうとしたのである。だが、英俊は厳しく突っぱねられても、怯んだりはしなかった。
「おまえにしかできないんだ、怜悧。地上で最も繊細で正確な嗅覚を持つ女はおまえだけなんだよ」
「そう言われましても……」
 怜悧の語調がやや弱まった。それは、英俊があえて「繊細」に力をこめて説き伏せたからだと、傍らで聞いていた閃火にはわかった。だからこそ、閃火はいっそう不機嫌になる。そもそも彼にしてみれば、英俊がまるで口説くかのように、怜悧に甘い口調で語りかけるのが非常に気に入らないのだ。それがまた「色男」の英俊には似合いすぎるからこそ。
「怜悧を困らせるようなことを言うなよ、英俊」
 閃火は憮然とした顔で横槍を入れた。本人にしてみれば怜悧を援護するつもりだったのだが、なぜか逆効果だった。
「勘違いなさらないで、閃火。私は困っているわけではないんですのよ。それとも、わたくしにはできないとでも思っていますの?」
「や、いや、別にそういうわけじゃ……」
 凄んだ怜悧に詰め寄られ、閃火は大いにたじろいだ。ろくな返答もできずにいる内に、怜悧はかえって闘争心を焚きつけられたようだった。
「わかりましたわ、やればいいんですのね。それであなたも満足なのでしょう、英俊?」
「ああ、充分すぎるほどにな」
 ちょっと待て。閃火はそう止めたかったのだが、もはや不可能だった。いまさら何を言おうと、一喝されておしまいだろう。今まで怜悧を止めることなど一度もできなかったのだから。
 すでに閃火の存在など忘れたかのように、怜悧はそれを英俊から受け取り、手のひらに載せた。そして彼女は注意深く鼻を近づける。その、一拍の後。
「これは――恐らく照絲の香ですわ」
 匂いを嗅ぎ取った怜悧は、そう判断を下した。
「香って……その灰が!?」
 驚きの声を上げる閃火を、怜悧は横目で見やる。
「正確には、照絲を練り込んだ錐香の燃えかすですわね。恐らく、外から誰かが窓の桟にでもそっと置いたのですわ」
 一般的な香は、香炉に灰を入れて火を落とし、その灰の上に練香や香木を載せて暖め、香りを漂わせるというものである。しかし、この場合は練り固めた香に直接火をつけて燃やしたのだろう。香炉など置いては目につくし怪しまれるので、小型化を図ったに違いない。
 続いて怜悧は、さらりととんでもないことを口にする。
「照絲とはすなわち招死――命を奪う毒香なのですわ」
 一瞬で閃火の顔から血の気が引いた。そして、彼女の手から灰を払い落とそうとする。
「ちょっと、何をするんですの、閃火!」
「あ、危ないだろ! そんな毒香なんか――だいたい英俊、おまえわかってたんなら、こんなもん怜悧に嗅がせるなよ! 毒を吸い込んだらどうするんだ!?」
 閃火にしてみれば、毒と聞いただけでそんなものを怜悧に触れさせてはならないと思ったのだ。しかし、当の怜悧は閃火の心配になど構う様子もない。むしろ閃火の突飛な行動に眉をしかめたほどだ。
「おい閃火、大事な証拠品を手荒に扱うなよ。だいたい、その程度の量じゃ人体に影響はないさ。それもただの灰だしな」
 横から少年の生真面目な行動をたしなめるのは、もちろん年長の――経験豊富な英俊である。
「そんなことわからないだろ!?」
 しかし、いくら閃火が叫んだところで両者の注意を引きつけることはできなかった。英俊は閃火を無視して、怜悧に事務的な質問を放つ。
「怜悧、照絲の製法は知ってるか?」
「それがわかれば苦労はありませんわ。あれは暗殺に使われる毒の内でも、限られた者にしか伝わらない秘薬ですもの。ただ――」
「ただ?」
 英俊に促されると、怜悧は少し詰まりながらも口を開いた。
「……怨呪の香を調合するのだと聞きましたわ。そう、あの――阮少卿が持っていた香ですわね」
 阮少卿の名を口にする際、怜悧は実に嫌そうな顔をする。それは単に先日の因縁があるだけではなく、阮少卿が並々ならぬ脂肪の持ち主だからである。牡丹にすら喩えられるほどの気品と優美さを備えた彼女にとって、美しくないものは憎悪の対象になるらしい。そしてまた、肉と脂で膨れ上がった中年男ほど、美とかけ離れたものもない。
 そんな怜悧の心情を察してか、英俊は小さな苦笑を浮かべながら口を開いた。
「なるほど、やはり阮少卿か」
「…………おまえら、俺を無視して話を進めるなよ」
 うめくような声で二人の会話に割って入るのは、当然閃火である。閃火には、彼らの話している内容が半分も理解できていない。香だの怨呪だの、そんなことは彼の範疇ではないのだ。一方、そちらの専門である怜悧は、英俊に力強く言い放った。
「やはり阮少卿の身辺をもう一度探るべきですわね。素早く死体を片づけたことといい、首謀者であることは間違いありませんわ」
 しかし、英俊は首を縦には振らなかった。
「いや、怜悧。おまえも自分でこの前言っただろう。奴の邸にはこの前潜入したばかりで、警備の数も増えているはずだ。もう少し日を置いたほうが良くはないか?」
「同じような手口で、また犠牲者が出たらどうしますの? 厄介な仕事がいっそう増えることになりますわよ」
「……まあ確かに、一理あるな」
 英俊は渋々ながらも認めるしかなかった。哀れな犠牲者を減らすという道徳心や正義感に訴えるのではなく、面倒事を減らせと言うあたり、なかなかに英俊の性格をつかんでいる。彼に人道など説くだけ無駄なのだ。
 英俊が苦笑しながらうなずくと、怜悧は艶然と微笑んでみせた。
「そういうわけですから、わたくしは準備を調えさせていただきます」
 そう言い終えると、怜悧はくるりと踵を返した。そのあまりの素早さに、口を挟む余地もなかった閃火は面食らう。
「え、ちょ、ちょっと待てよ、怜悧!」
 慌てて怜悧の後を追おうとした閃火だったが、駆け出すまさにその瞬間、ただちに引き戻された。
「わっ、いてっ、何すんだよ英俊! 怜悧が行っちまうだろ?」
 離せ離せと、閃火はじたばたと暴れてみせる。何と英俊は、走り出そうとする閃火の耳をつかんで引き戻したのだ。
 英俊は、さらにその耳を引っ張ると、低く押し殺した声でささやいた。
「気を抜くなよ、閃火。俺たちは奴に顔を見られてる。おまえも――もちろん、怜悧もな」
 その台詞は、閃火を奮い立たせるには充分だった。
 強くうなずいて走り出す閃火の背を見送ると、英俊は一つ大きく息をついた。まったく、閃火を動かすのに「怜悧」の二文字は実に有効だ。それでいて本人は完全に相手にされていないのだから、人生とは皮肉なものである。
 二人を送り出すことに成功した英俊は、彼らの姿が見えなくなると表情を曇らせた。
 ――阮少卿。
 その名が彼の不安を煽る。
 先日、盗みに入った時にはただの小者だと思っていたし、ふるまいも確かにその程度の男だった。そのはずが、今回は機先を制し、すべて首尾良く事を済ませている。まるで別人に生まれ変わったかのように。いや、もしくは――
「別人、か……」
 英俊は小さく独語した。考えられる、もう一つの可能性。それは別人が今回の件に一枚噛んでいるということだ。だが、阮少卿が誰かに使嗾されているとして、その相手に果たして閃火たちが対抗しきれるだろうか……。
 ――まったく、骨が折れる。
 お荷物ばかり押しつけられて、実に不本意極まりない人生である。身の軽さとは対照的に、気は重くなるばかりだ。
 頭から懸念を追い出そうと、首を一つ振ると、彼はおもむろに立ち上がった。
「……さて、もう一人のお子様はどうしたかな」
 もう一人のお子様とは、もちろん悠遠のことである。彼女はなぜか鬼才から一人だけ呼ばれていたのだが――
「鬼才だの兇星だのと、ずいぶんアクの強い男どもに好かれるようだな、あいつは」
 苦笑しながらそうつぶやいた、その時。
「自分のことは棚に上げて、ずいぶんと勝手な言いようだな、英俊」
 背後から上がった声に、英俊は咄嗟に反応できなかった。それは本来、起こるはずのない事態だったのだ。――彼が気づかぬうちに背後を取られるなどということは。
 しかし、いまさら慌てても相手に弱みを見せるだけだと知っている英俊は、半ば悠然とした笑みを浮かべて振り返ってみせた。
「俺は素直で誠実なのが一番の売りでね。あんたのように毒気の強さを誇ることはとうていできんよ」
「相変わらず口だけは達者なようだな」
 振り返った先、回廊の中央で、薄い唇の端をつり上げて笑うのは兇星その人だった。
 いったい、いつの間に背後に現れたのだろう。この自分に気配すら感じさせないとは――英俊はそう思いながら、じりじりと間合いを詰めた。いつ斬りかかってもいい程度の距離を取らなければ、またも後れを取ることになってしまう。それだけは影鬼の長たる者としての自尊心が許さなかった。
「宮中の官吏が真っ昼間から手駒の観察とは、えらく暇なようだな。一日中こき使われる無位の下官とはとても思えないが」
「詮索はやめておいたほうがいい。互いのためにな」
 兇星が普段身に着けているのは、無位無官を表す黒の官袍である。これは下官がまとうように定められているが、《影》を操る人間が宮廷に官位を得ないはずはない。当然、この姿は正体を知られないための偽装だろう。
 そもそも兇星などというふざけた名前も偽名なのだし、また英俊ら四人の前では必ず御簾越しに対面するのも、徹底的に自分の正体を隠している証である。
「信用のできない人間に仕えろと?」
「いまさらだろう。おまえは誰も信用していない。――たとえ仲間であってもな」
 その台詞に対し、英俊は反駁の語を一瞬失った。常に軽口をたたき、言葉に詰まったことなどない彼が、なぜか反論できなかったのだ。
 ――誰も信用していない。
 それは事実であったから。
 そう、彼は自らが率いる《影》の仲間に対しても、無条件の信頼を寄せることはなかった。そして、そのことを兇星は見抜いていたのだ。
「……そう思うのなら、なぜ俺の前に姿を現す? 御簾の向こうで素顔を隠していればよかろう」
 英俊と兇星の直接の対面は、これが初めてではない。四人一緒の時は御簾越しでも、一対一で話す時は常に素顔を見せてきた。正体を隠しておきたいのなら、なぜそんなことをするのだろうか。英俊には見当もつかない。
「さて、なぜかな」
 まるで面白がるような口調で、兇星は笑ってみせた。その態度が英俊には苛立たしい。自分には相手の内情を探る手立てもないというのに、向こうはこちらのことを知り抜いていて、手の上で転がして遊んでいるのだから。
 弄ぶことは好きでも遊ばれるのは大嫌いな英俊にとって、実に耐えがたい事態である。
「――鬼才はあんたと同じ目的か」
 ようやく出てきた言葉は、それまでの会話からそれたものだった。しかし、兇星は瞬時にその質問の意図するところを察した。
「悠遠のことが気になるなら、素直にそう訊いたらどうだね?」
「誰もそんなことは言ってない」
「おや、一番訊きたいかと思ったのだがね」
 兇星はわざとらしく喉を鳴らして笑ってみせた。その態度に、英俊はいっそう怒りをつのらせる。
 他の影鬼三人が今の彼を見れば、目を丸くしただろう。どんな窮地に陥っても常に飄然としている英俊が、見るからに華奢で文弱そうな青年にからかわれているのだから。
 すると、それまで英俊をからかって遊んでいた兇星は、わざとらしい笑みを収めると急にこんなことを言い出した。
「回りくどいやり方は、おまえらしくないのではないか? ちょうどいい機会だ、己の腕を知っておくのも良かろう」
「……欲しいものは腕ずくでつかみ取れというわけか」
 その言葉に対する返答はなかった。お互いに、相手の次の行動は読めている。
 英俊が刃を閃かせ、兇星が身を翻させるのは、ほぼ同時だった。
 英俊が繰り出した短刀は空を切った。並の人間なら確実に心臓を貫かれていたはずの、正確な一撃である。しかし相手は並ではなく、それを心得ている英俊はかわされることを想定し、返す刀で深手を負わせる心算だった。だが。
「なっ……」
 絶句する、とはまさにこのことだろう。
 カラン、と乾いた音を立てて、英俊の短刀は床の上で円を描いた。これまで一度も他人に後れを取ったことのない彼にとって、武器を叩き落されるのは初めてである。
 しかし、だからと言って彼は呆然としたまま隙を見せるような男ではない。素手になったところで、すぐさま体勢を立て直して次の攻撃をかわせるよう構え直した。
「筋は良い……が、まだまだ鍛え足りぬようだな」
 兇星はつり上げた唇に、かすかな笑みを浮かべた。そこに嘲る色が含まれていることを察知し、英俊は腹の中が熱くなるのを感じた。
「まあ、せいぜい大事なものを奪われぬように腕を磨くことだな」
 そう言い捨てると、兇星は小剣を床に放った。何気ない動作に見えるにも関わらず、その剣は英俊の足元のすぐそばに突き立った。少しでも外れれば、英俊の足の甲に刺さっていたに違いない。それほど正確な一投だった。
 くく、と喉を鳴らして笑いながら、兇星は回廊を立ち去ってゆく。その後ろ姿を英俊は黙って見送ることしかできなかった。
 味わったことのない敗北感と、かすかな違和感を抱いたまま。





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