第二章 宥月


 宥月の儀は、宮中の多くの人間を動員した。本来は飢饉や洪水のような天災が起こった時に行われるものである。一官吏が死んだ程度では決して巫女が舞うことはない。たとえそれが月の怒りのせいだとしても、宥月の儀まで行う必要はなかった。
 にも関わらず、即時に行われたのにはもちろん理由がある。近頃、太后の浪費と専横に対する不満の声が増えており、また反対派の先鋒だった楊丞が死んだことにより、いっそう非難が高まることは想像に難くなかった。そこで太后は、己の姿を衆目にさらすことにより民衆を味方につけ、宮中での勢力を固めようとしたのである。
 そのためには、儀式も盛大に行わねばならない。民心を得るには、できるだけ強い印象を与える必要がある。
 その準備に追われた部署が、特に太陰府であった。もともと祭祀や儀礼を執り行う機関であり、また卜占にも深く関わることから、「月の巫女」である太后とは強い結びつきがある。本来、九府は三省六部の下位機関であるのだが、今の太后が権力をふるうようになってからは、九府が天子の直属機関のごとくふるまうようになっていた。
 その中でも特に、筆頭機関である太陰府は太后の信任が厚い。そして太陰府に属する阮少卿もまた、太后によって厚遇されている官吏の一人だった。
「太后陛下、実にお美しゅうございました」
 御簾越しに叩頭し、太后を称えるのは阮少卿である。しかし腹回りの脂肪が邪魔で、床に額がつくより先に、腹の方が当たってしまうのだが。
「堅苦しゅうするでない。おぬしのお蔭で今日中に儀式を無事終えたのじゃ。ようやった」
「ははっ、ありがたきお言葉……!」
 腹の肉を床に押しつけて、阮少卿はいっそう低く平伏した。御簾越しとはいえ、玉音を直接賜ることができるのは、破格の待遇である。本来は三品以上の官位がなければ単身で拝謁することはできないのだが、阮少卿は次官でありながら、長官である太陰府卿よりも厚く遇されているのだった。
「それで、例のものは首尾よく始末したのであろうな」
「もちろんでございますとも。すでに証拠となるものはすべて片づけさせております。太后陛下のご心配には及びません」
 阮少卿は肉の厚い胸を大いに張った。そう、彼は完璧に始末した。――あの香も、死体も。すべて息のかかった者に命じ、極秘で処分させたはずだ。
「ならばよい。ところで阮少卿、宵薫の香がそろそろ足りぬのじゃが」
 その言葉に、阮少卿はやや慌てた。
「も、申し訳ございません! ただちに手配いたしますので」
 こんなところで太后の機嫌を損ねてはならない。些細な失策で二度と宮中に姿を見せなくなった同僚を、彼は数多く知っている
「ほんにおぬしはよう働いてくれる。官位から少の字が外れるのもそう遠くはなかろう」
「もったいない仰せでございます」
 頭と腹をさらに低くしながらも、その声には謙遜よりも明らかに何かを期待する色が含まれていた。すでに彼は九府筆頭の太陰府次官の位を手にしている。ついこの前まで、彼は従七品の主簿だったのだ。それが今では正四品の少卿。卿位につくのも時間の問題と、周囲からも思われている。ただひたすら、太后の手足となって働くことによって。
 必要なことを話し終えたところで、太后は阮少卿を下がらせた。肉の重みを伝える足音が遠ざかると、彼女は小さく吐息した。
「小者を扱うのは簡単じゃが、つまらぬものでもあるな」
「――小者に多くを求めるのは無体というものでしょう」
 奥の間から発せられた声に、太后は細い首をめぐらした。
「そなたも聞いておったのか。小者の戯言など耳に入れては体に毒じゃ」
 太后はささやくように告げながら、相手の頬に白い手を差しのべた。
「母上……」
 彼は小さくつぶやいた。この人こそ第十二代盈国皇帝、洪瀾である。すなわち太后の実子であるのだが、彼女の艶然とした態度は決して子に対する母親のものではなかった。
「母と呼ぶでないと言うておろう。洪瀾……」
 太后は繊手を洪瀾の首に絡め、柔らかな唇をそわせる。
「あ……嫦娥様……!」
 洪瀾は太后の名を呼んだ。それが合図となって、二人はもつれるように榻に倒れ込んだ。
 室内は濃密な香の匂いに満ちている。香の名は宵薫――先ほど太后が阮少卿に所望した品である。怨呪三種の香にも数えられるが、単独の効能は催淫。四六時中この香りに囲まれている洪瀾は、すでに淫楽に溺れきっている。――人倫をも忘れさせるほどに。
「嫦娥様……私は……」
「そなたは何も考えなくてもよい。ただ妾だけを見ておればよいのじゃ」
 巫女装束を脱ぎ捨てた嫦娥は、すでに巫女でも太后でもなく、一人の女になっていた。
 露わになった白い肌は、絹のようになめらかで、まるで吸いつくようにしっとりと潤っている。洪瀾は赤子のように母の胸に顔をうずめ、いっそう激しく情欲に溺れていく――……

 その様を、黙って見守るものがあった。房(へや)の中央に掛けられた、半身ほどの大きさの半円鏡。薄闇の降りる室内で、それはまるで宵の空を照らす上弦の月のようだった。
 曇りなく磨き上げられたその鏡面にはただ、歓びに打ち震える嫦娥の姿が鮮明に映し出されていた。






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