第二章 宥月


 月台では巫女が蠱惑的な舞を披露していた頃。怜悧と閃火の二人は、阮邸に潜入していた。日の出ている時刻に行動するのは久々だったが、成功できて良かったと閃火は息をついた。
「思ったほど警備が強化されてなくて良かったな」
「安心するのが早すぎますわよ。油断させるための罠かもしれませんわ」
「う。そ、それもそうだな」
 何気なく漏らした安堵の声すらばっさり切り捨てられ、閃火はうろたえた。いつものことだが、相変わらず彼は怜悧に打ち負かされる一方である。
 しかし閃火が思わず口にした通り、阮少卿の邸は先日潜入した時と、衛士の数はほぼ同じだった。
 今、彼らは阮邸の中庭にいる。昼日中だというのに堂々と入り込めたのは、巡回する衛士が少ないためだ。大勢詰めていれば、荷に紛れて入り込むなど、別の手を使わなければならなかっただろう。お蔭で彼らは、茂みに隠れてあとは邸内に潜り込む機会を窺うだけで済む。

(一度盗まれたら、もう狙われないと思ってる……とか?)

 怜悧に聞かれれば、にらまれそうな感想を閃火は抱いた。
「……今日は宥月の儀で阮少卿が出ていますから、多くはその護衛に駆り出されたかもしれませんわね」
 ぽつりとつぶやいた怜悧の台詞に、閃火はどきりとした。まさか心中を読まれたのではないだろうか?
「いずれにせよ、好都合ですわね。今の内に行きますわよ、閃火」
「あ、う、うん、そうだな」
 どうにも閃火は怜悧の前だとまともに喋れないことが多い。本人も自覚してはいるのだが、それを直すことは難しかった。
 どもりながら頷く閃火を見向きもせずに、怜悧は邸の床下へ潜っていった。



 阮少卿の邸は、大路で分けられた都城内の西側の区画にある。三品以上の高官の邸宅は東地区と定められているので、ここに住まうことは彼にとって屈辱だろう。禁城の側近くに邸を構えるには、まだ位階を上らねばならないのだ。
 それでも、阮邸は恐ろしく広い。庶民の家が百軒は軽く入ってしまうほどである。そんな広大な建物の床下に、明かりも地図もなく潜り込んだというのに、怜悧はまったく方向を失うことがない。まるで床の上を歩いているのと同じように、迷いなく目的地へと進んでいる。もちろん、地面を這っていくという、決して良い格好とはいえない姿ではあるが。
「いつも思うんだけどさ……怜悧って何を目印に進んでるんだ?」
 不意に、閃火はそんな質問を放った。じめじめした床下で無駄に口を開くと、土と埃の味がするのだが、今は好奇心の方がまさったようだ。
 しかし、それに対する怜悧の答えは、素っ気ないほどあっさりしたものだった。
「臭いに決まっていますわ。房はそれぞれ臭いが違いますもの。先に間取り図を見ておけば、後は臭いを頼りに進めばいいだけの話ですわ」
「いいだけって……それが普通はできないんだけど」
「何かおっしゃいました?」
「いえ、何も!」
 などというやり取りをしている内に、彼らは目的地の床下にたどり着いた。
 怜悧にしてみれば、香のような特別な匂いのする房を探り当てるなど、造作もないことである。もともと鋭い嗅覚を持っていた彼女だが、影鬼となってからはますます磨きがかかった。
 閃火の質問によって自分が闇に墜ちた身だということを改めて思い起こされ、不機嫌になった彼女は、いつもよりも余計に冷たくあしらってしまったのだ。
 というより、普段から閃火に対しては必要以上に冷たく、そのことを彼女自身も自覚してはいるが、下手になつかれても困るだけなのだ。閃火の明らかすぎる想いを、彼女は受け入れることができないのだから――
「怜悧、行くぞ。どうした? どこかぶつけたのか?」
 急に動きの鈍くなった怜悧を気遣った閃火だったが、返答は一言だけだった。
「いえ、別に」

(くだらないことを考えている場合ではない。集中しなくては)

 怜悧は唇を強く噛み、気を引きしめた。そう、今はまさに仕事の真っ最中なのだ。こんなところで失態を犯すわけにはいかない。
 そして彼らは、床の上に人がいないことを確かめると、室内の隅の床板をゆっくりと取り外した。そのための道具は当然用意してある。そうして目的地に無事忍び込んだ二人は、全身泥にまみれていた。
「まったく……湿った土と黴の臭いで鼻がおかしくなりそうですわ」
「そ、それは困る……! 怜悧の鼻がきかなくなったら――」
「影鬼失格、ですわね」
「だ、誰もそんなこと言ってないだろ……!」
 閃火をうろたえさせておいて、怜悧は小さく息をつく。まずは準備から。
 泥まみれになることを予想して、着込んでいた外衣を丸めて懐にしまう。あちこちに泥を落としていては、後を追ってくれと言っているようなものだ。さらには、臭いを嗅ぎ取る妨げにもなる。
 同様に頭巾も脱いで、支度を調えると彼女は行動を開始した。そしてたちまちの内に、彼女は臭いの源を探り当てた。
「この棚……ですわ」
 百年以上使われているのではないかと思わせる、古めかしい棚が彼らの目の前にあった。それを見て、閃火は黴の臭いの方がきついのではないかと本気で疑ったくらいである。
 しかし、怜悧の確信は揺るぎない。そして彼女の判断が常に正しいことを知っている閃火は、慎重に棚の扉に手をかけた。古い錠前がかかっているが、閃火にとっては鍵などないも同然である。懐から取り出した細い金具で、あっという間に開けてしまった。
「予備の香炉のようですわね。この前、大事な香炉は盗られてしまいましたし」
 棚から怜悧が取り出したのは、先日彼らが阮邸から盗み出したものより一回り小さな香炉だった。予備と彼女が言ったのは、最近使われた形跡が見られないからである。さらには、装飾も少なく造りも雑。形式を重んじる怨呪に使うにしては、少々地味すぎるだろう。
 その隣では、閃火が棚の中をさらに物色している。
「他にもいろいろあるぞ。こいつらがその毒香の材料なのか?」
「照絲の製法はわからないと言ったはずですわよ。でもここにあるのも、まともとは言えない品ですわね」
 怜悧が一瞥したところ、どうやら棚にしまわれていたのは、薬草などの材料であるらしかった。
 とはいえ、体を治すための薬ではない。不老長寿の仙丹、媚薬、強精剤など、闇で取引されるような怪しい薬の材料ばかりである。
「太陰府少卿の位を利用して、入手の難しい品もいろいろと取り寄せたのですわね。恐らくこれだけで、俸給以上の財が築けるはずですわよ」
 太陰府は医術も統括する機関である。必要とあれば、どのような薬草でも手に入れられる。それらを集めて怪しい薬を調合し、荒稼ぎしているのだろう。
 実際、棚の中には薬をすりつぶす鉢、金属や石の粉末を集めた甕、材料となる虫の殻や干した蛇の皮といったものが、所狭しと押し込められている。
「くそっ、金持ちのくせに金儲けしようなんて嫌な奴だな」
 舌打ちしながら、閃火はさらに下の段を開けようとした。まさにその時、
「あっ、閃火! その棚は……!」
「ん?」
 怜悧が止めようとしたが、すでに遅かった。勢いよく棚を開けた閃火は、それらを目の当たりにしてしまったのだ。
「――……っ!」
 何とか悲鳴を押し殺したのは、まだ立派だったと言えるだろう。しかしその直後、彼はどさりと倒れ込み、あっさり意識を手放してしまったのだ。
「ああもう、だから開けてはいけないと言いましたのに……!」
 実際には忠告し終えていなかったのだが、怜悧のその台詞は閃火の耳に届くことはなかった。
 棚の中にあったもの――それは閃火でなくても気分の悪くなるような代物だった。

 酒精に浸された内臓。
 蜜蝋に漬けられた手首。
 玻璃の瓶に詰められた眼球。

 どれも悪趣味と言えるものばかりである。しかし、閃火の意識を奪った元凶はそれらではなく、なみなみと壺の口いっぱいに注がれた――人血だった。
「血の苦手な《影》の者など、聞いて呆れますわ……本当に」
 錠破りが得意で、すばしこく、夜目も利いてそこそこ腕も立つ。影鬼としてはなかなかの素質だが、閃火の唯一最大の弱点がこの「血に弱い」というところである。
 当然、実戦では役に立たない。身を守るにも刃物を振り回せば逆に自分が昏倒してしまうので、体術と棒術を駆使するのが精一杯。だから閃火の仕事は、手先の器用さを生かせるような裏向きのことだけに限られる。本来は、いざとなれば切り結ぶ必要もある潜入捜査に連れてきたくはなかったのだ。
「こんな大きなお荷物、わたくし一人でどうすればいいんですの……?」
 今日は英俊が同行していないので、背負わせることもできない。本当に置き去りにしていこうかと思ったその時。
「悪戯が過ぎるようだな、豎子(がき)どもめ」
「――――!」
 その声を聞いた瞬間、怜悧は己の失敗を覚った。気色の悪い収集物を調べるのに気を取られ、周囲への注意が疎かになってしまったのだ。
 振り返った視線の先には、決して見たくなかった醜いものがあった。
 脂肪の塊――すなわち阮少卿その人である。
「太后の命で邸に戻ってみれば、鼠を捕まえることになるとはな。さすが月の巫女の神通力は並はずれておる」
 彼は太后の命令により、催淫の香である宵薫を取りに帰宅したのだった。そしてこの房に入り、影鬼二人と遭遇したのである。
「貴様らにはこの前の借りもある。じっくり嬲ってやるから覚悟しておけよ」
 阮少卿は暗く笑んだ。それと同時に彼の背後で、ざわと複数の影が動く。たとえ自邸の中でも、彼は常に何人もの護衛を引き連れているのだった。
 衛士たちは、立ちすくむ怜悧と倒れたままの閃火を取り囲んだ。
 もはや、逃げ場はどこにもなかった。





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