第二章 宥月


「……遅い。遅すぎる」
 もともとじっとしていることの苦手な悠遠は、ついに我慢しきれず立ち上がった。
 ここは、彼ら影鬼の詰める房舎内。英俊と悠遠、怜悧と閃火の二組に分かれ、それぞれ月台の見物と阮邸の捜索に当たったのだが、先に出たはずの怜悧たちがまだ姿を見せない。予定では日暮れ前に戻るはずが、すでに夜半を割り込んでいる。
「やっぱり何かあったんじゃないのか? 二人だけで潜入させても良かったのか?」
「それはつまり、俺の判断が誤りだったというわけか」
 焦った悠遠の問いに、英俊は低い声音で応じた。いつもは人をからかう発言ばかりの彼にしては珍しい反応に、悠遠はかえって困惑した。
「べ、別にそういうつもりじゃ……ただ、心配くらいしてもいいだろう?」

 ――仲間なんだから。

 悠遠の目は、後続の言葉を充分に語っていた。それがわかるからこそ、英俊はいっそう不機嫌になる。そして、いつになく自己の感情を見せてしまっている自分に対し、さらに腹が立つ。
 実際、非常に珍しいことなのだ、彼が不機嫌さを押し隠そうともしないなど。普段は欠片さえも見せずにいるはずなのに。
 英俊は、これまで一度も仲間意識などというものを抱いたことはない。闇に属する者は、すべて盤上の駒に過ぎないのだ。無論、己さえも。だからこそ常に冷静に動かしてきたはずだった。それなのに、今回ばかりは失敗だったというのだろうか。かすかに抱いた懸念を無視して、事を進めたばかりに――
 だが、腹が立つのは己の手落ちに対してだけではない。

(――おまえは誰も信用していない。――たとえ仲間であってもな)

 冷えた声が脳裏によぎる。立場が逆なら絞め殺してやりたいほど腹の立つ男の声が。
 兇星の言葉は真実を告げていた。
 だからこそ、それを見抜かれていたことが腹立たしいのだ。あんな男に見透かされるほど自分は格下なのだと思い知らされるから。

 ――そして直後にこの失態とは。

 すでに英俊は、怜悧と閃火が失敗したものと断定している。彼らが戻ってこない理由は、他に考えられない。そういう意味では、二人を彼は信用しているのだ。――その、利用価値と能力を。
 しかし、今回は荷が勝ちすぎていたということなのだろう。それを判断しきれなかったのは、明らかに自分の読み違いである。
「捜しに行くか」
 唐突な台詞に、悠遠は目を丸くした。
「……おまえからそう言い出すとは思わなかった」
 悠遠の正直すぎる発言に、英俊は少々むっとした。
「どうせ俺が言わなければ、おまえが捜しに行くとわめき出すだろうが」
「それはそうなんだが……でも英俊は他人に冷たいから」
 悠遠にまで言われては、もはや返す言葉もない。それほど内心を読まれやすいたちではなかったのだが――と、やや不本意ながらも英俊は二人の「仲間」の捜索のため、立ち上がることにしたのだった。



 冷たい石の床は、時が経つにつれていっそう冷えてくるようだった。
 氷のような手に、怜悧は何度も息を吹きかけながら指先をこまめに動かしていた。そうしてほぐしておかなければ、いざという時に言うことを聞かなくなってしまう。手先の鈍い影鬼など、死んだも同然である。
 その隣では、指一つ動かさずにじっと座り込む閃火の姿があった。怜悧よりもさらに手先が器用で、それが売りであるはずの彼だが、そうした地道な動作をする気力を失っているようだった。閃火は膝を抱えてうずくまり、身じろぎすらしようとしない。
 彼らが押し込まれた牢には窓がなく、唯一の出入り口の鍵穴は厚い扉の外側にしかないため、錠破りの技をふるうことができないということもある。だがそれだけでなく、彼は自分の「弱点」のために怜悧をも危険にさらしてしまったことを、深く悔やんでいるのだった。
「まったく、お間抜けにも程がありますわね」
 指先を温めていた吐息を溜息に変え、怜悧は肩を落としてつぶやいた。
「……わかってる……わかってるよ!」
 急に叫んだ閃火に、怜悧は驚いて目を見張った。そして、少しばつの悪そうな顔で言い繕う。
「違いますわ、自分自身に言ったんですの。あなたが血に弱いことがわかっていたのに、止められなかったわたくしがお間抜けだったのですわ」
「そんな……」
 怜悧の意外すぎる言葉に、閃火は戸惑った。これまで罵られたりお荷物扱いされたことは数多くあっても、慰めてくれるような発言は一度も聞いたことがなかったのだ。
「閃火はいつから血が苦手になったんですの?」
 怜悧はここで初めてその質問を投げかけた。閃火が血に弱いことは影鬼を組まされてすぐに判明したが、これまで詳しく訊いたことはなかった。
「いつからなのかは覚えてない……ただ、鬼才に拾われた時には、もう苦手になってたみたいだ」
 記憶をたどるように語る閃火の言葉に、怜悧は思わず聞き返した。
「拾われた?」
「ああ、家は兄弟が多くてさ、末っ子のおれは邪魔だったから売られたんだよ。貧乏だったからな。それで鬼才に影鬼として教育されたんだ」
「そう……でしたの」
 訊いたことを少し悔いるように、怜悧はややしおらしくなった。その珍しい態度に、閃火は焦って両手を振った。
「あ、いや、おれはまだ小さかったから、家族の顔も全然覚えてないんだよ。だから別に悲しいとも何とも思わないしさ、な」
 怜悧に気を遣わせまいと必死な様子に、彼女の表情は少し和らいだ。
「では、幼い頃から血を見ると倒れてばかりだったんですの? それでよく今日まで無事でいられましたわね」
「うん……まあその、英俊にずっと面倒見てもらってるんだよな。現場で倒れたりした時はだいたい。それに、おれもいつも倒れてたわけじゃないし」
「そうなんですの?」
 最後の台詞に対し、怜悧は疑わしげな目を向けた。彼女はいつも血で卒倒する姿しか見たことがないのである。そのため、閃火は何とか弁明を試みた。
「ほ、本当だよ。さっきはちょっと油断しちゃったけど、これでも毎日特訓してるんだし……」
「毎日? どこでそんな特訓をしているんですの?」
 彼女たち影鬼は普段、起居をともにしている。にも関わらず、毎日同僚の目を盗んで特訓などできるものだろうか。いや、そもそも血に弱い弱点を克服するため、いったいどんな特訓をしているというのか。
 怜悧は訝しげな顔を向けたが、閃火はなぜか口ごもってしまった。単なるでまかせだったのか、それとも言えないような事情があるのか――
 重ねて問おうと怜悧が口を開きかけた時、しかしそれを遮る者が現れた。
「ほう、役目が果たせずとも自害せずにいたとは都合がいい」
 最も聞きたくない声が、愉悦の色を交えてその場に放たれた。怜悧は下唇を強く噛みしめながら、振り返った。
 案の定、そこには邸の主人、阮少卿が立っていた。肉の塊で出入り口を塞いでしまっているので、隙間から素早く逃げ出すこともできない。贅肉が役立つこともあるのだと、怜悧は忌々しく思った。また彼は当然、複数の衛士を引き連れているので、捕まえて人質にすることも不可能だった。
「わたくしたちから何かを聞き出そうとしても無駄ですわよ」
 怜悧は阮少卿をにらみつけながら、鋭く言い放った。まだ少女と呼べる年頃だが、端麗な顔かたちの彼女がにらむと凄みがある。閃火などは一瞥されただけですくんでしまうのだが、さすがに年季の入った阮少卿は怖じ気づく様子もなかった。
「威勢が良いな。さすが育ちが違うだけあるわ」
 その言葉に、さっと怜悧は顔色を変えた。内心を見透かされることが大嫌いな彼女にとって、それは大いなる不覚。しかし、その一瞬を阮少卿は見逃さなかった。
 いっそう自信をつけた阮少卿は、もったいをつけて話した。
「高貴な血を受けながら、ここまで身を落とすとは……時の流れとは無情なものだな。――怜悧公女」
 息を飲む音は、隣の閃火にまで聞こえた。
 最後の一言が、怜悧から完全に平静を奪ってしまった。
「怜悧……公女?」
 閃火は思わず、その単語を繰り返した。
 今、確かに阮少卿はそう言った。
 と、いうことは――?
「だが、ただ殺すには惜しい。あの、色に狂った天子もそろそろ乳離れさせる頃だしな。儂の言うことを聞けば、おまえだけは命を助けてやっても良いぞ」
 阮少卿の嘲る声を断ち切るように、怜悧は鋭い視線をまっすぐ向けた。
「おまえに命乞いなどしませんわ! 殺すのなら早くそうなさい!」
「れ、怜悧!?」
 燃えるような瞳でそう言い放つ怜悧に怯えたのは、閃火の方だった。その強い眼差しは、闇に生きる《影》というよりは、煌然と輝く尊貴な血脈を感じさせた。
 しかし、今は激昂すべき時ではない。相手が何と言おうが、できるだけ話を引き延ばして時間を稼ぐべきではないか――
 閃火は何とか話を延ばそうと口を開きかけたが、阮少卿が先に話し始めてしまった。
「ふん、いい度胸だ。ならば望み通りにしてやろう。色惚け天子にあてがう女など、他にいくらでもいるからな」
 自らが仕える主君を嘲弄すると、阮少卿は右手を挙げた。
 それが合図だった。控えていた衛士たちは、ただちに二人の四肢をねじり上げ、押さえつけた。
「わっ、おまえら何するんだよ!」
 閃火は逃れようと暴れたが、それも無駄だった。あっさり両手両足を縛り上げられた上、その縄を石壁に取り付けられた鉄環に繋がれてしまったのだ。これでは逃亡どころか、まともに身動きすらできない。
 二人を屠殺前の家畜のように縛り上げると、阮少卿は満足げにうなずき――そして、その笑みを隠した。なぜか、袖口で鼻と口を覆ったのである。
 理由はほどなく知れた。
 奥に控えていた衛士たちが阮少卿の合図で進み出ると、石の床に何やら甕を置いた。そしてその中に、素早く火を落としたのである。
 炎は甕の中で次第に燃え広がり、間もなく煙を生んだ。今までに嗅いだこともない、その異臭に閃火は眉をひそめる。一方、隣で同じく縛り上げられている怜悧は低くつぶやいた。
「これは……照絲……?」
 煙の香を嗅ぎ取った怜悧の顔は、驚くほど青ざめていた。閃火もまた、その単語にびくりと震える。
 照絲――死を招くという毒の香。
 怜悧が匂いを間違えるはずがない。ということは、阮少卿は自分たちを毒香で殺すつもりなのだ。しかもやけに煙が多いのは、燻していっそう苦しめる魂胆なのだろう。本来、香は直接火をつけずに焚くのが一般的だが、この阮少卿はあえて香を粉末状にして燃やしているのだ。煙の効果を狙っているに違いない。
 閃火の表情に広がった驚愕の色を読み取って、阮少卿は悠然と嗤った。煙を吸い込まないよう、口元を袖で覆いながら。
「よくわかったな。と言いたいところだが、これは完全な照絲ではない。宵薫を抜いて調合したものでな」
 完全に優位に立ったのが嬉しくてたまらないらしく、阮少卿は得意げに話し始めた。もはや手の内を見せても問題ないと判断したのだろう。彼の目には、二人がすでに屍に見えているに違いない。
「怨呪三種の香――宵薫は魂(こん)を抜き、冥泉は魄(はく)を奪い、落淘は命(めい)を滅ぼすとされておる」
 魂は精神、魄は肉体をそれぞれ司る。つまり三種の香は、まず宵薫で意識を奪い、冥泉で体を麻痺させ、落淘で息の根を止めるという効能を持っているのだ。落淘はすなわち落頭――単独でも精製すれば毒薬として用いられる。一方で宵薫は効能を弱めれば、思考力を奪って欲望を焚きつける催淫香となる。
「あえて宵薫を抜く――その意味がわかるか。おまえらは意識を失うこともできず、苦しみ抜いて命を落とすのだ。せいぜい絶望を味わっていくがいい!」
 高笑いを響かせながら、阮少卿は踵を返した。脂肪の詰まった腹の肉を波打たせながら。
 先日、香炉を盗まれてわめいていた時とは別人のような態度である。その変貌ぶりをしっかりと見せつけて、重い扉の閉まる音を石牢に響かせた。



「くそっ、ふざけやがって……!」
 ごほごほと咳き込みながら、閃火は毒づいた。甕から出てくる煙は止まりそうにもない。香炉よりもはるかに大きな容器であることから見ても、彼らの息の根を止めるのに充分な量が用意されているに違いない。
 床に置かれた甕に手を伸ばしたくても、彼らは両手両足を縛り上げられ、さらにその縄で石壁に繋がれてしまっている。動くどころか、鼻と口を手で押さえて煙を避けることもできない。
「怜悧……大丈夫か?」
 大丈夫なはずはないのだが、思わずそう訊いてしまった。そして返ってきた声は、予想以上にか細かった。
「……喋ると余計に吸い込みますわよ」
「う、うん……」
 怜悧の言葉は正しい。事実、閃火はすでに彼女よりも多く煙を吸ってしまっている。咳き込むのが苦しくなってきているのが、その証拠だ。
 だが、たとえ喋らずにいたとしても、このまま密閉された空間にいれば、毒が回って死んでしまうことは目に見えている。まだ体が動く内に、この最悪な状況を打破しなければならない。
 何とか縄をほどこうと賢明にもがいていると、隣で怜悧がぽつりとつぶやいた。
「……阮少卿は、この牢で同じように何人も殺してきたのですわ……ここには毒の香と…死臭がしみついていますもの……」
「こ、この照絲ってやつでか……?」
「いろいろな香が混じっていて、判別はできませんわ……きっと、何度も実験をしていたのですわね……楊丞や、他の人を殺すために……」
 阮少卿はこの香を、照絲から宵薫を抜いたものだと豪語した。恐らくこうした実験を繰り返して、より強い毒香の研究を重ねてきたのだろう。その結果、あのおぞましい収集物が生まれたのだ。収集物――特に人血の詰まった壺を思い出して、吐き気をこらえた。
 すでに煙はもうもうと湧き出て室内を白く埋めている。閃火は隣の怜悧を見ようとしたが、煙の痛みで目を開けていることも難しくなってきた。
「れ、怜……」
 名を呼ぼうとして、閃火は激しく咳き込んだ。そしてその息苦しさが、さらに意識を薄れさせる。毒の香が彼の体を蝕み始めているのだ。

(怜悧……!)

 迫りくる煙の中で何とか薄目を開けた閃火は、怜悧のそばに一つの影が近づいていることに気づいた。

(人…か……?)

 その影は、閃火より頭一つ以上大きかった。英俊だろうか? いや、そんなはずはない。そもそもこの室内に、誰かが入った様子もない。ではいったい、この影は何なのか――?
「―――……」
 影が、何事かをつぶやいた。そんな気がしただけかもしれない。すでに閃火は聴覚も朧げになってきていた。
 狭まる視野の中、彼の細めた目は驚くべきものを捉えた。
 かすかに浮かんだ怜悧の微笑。――そして。
「洪…瀾……」
 嬉しげに呼ばう、細い声を聞いたのが最後。閃火の全身に回っていた痺れが、不意に遠のいた。立ちこめる煙にすべての視界を覆われながら、彼の意識は闇に落ちた。





SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送