第二章 宥月


 月を雲が覆い、深い闇が支配する夜。
 その闇に溶け込んだ二つの影が、その邸の前で動きを止めた。
「さて、あいつらはどの辺にいるかな」
 阮邸より少し離れた木立に身を隠すと、英俊は小さくつぶやいた。
「囚われているなら牢だろうな。だが、別室で尋問を受けているかもしれない」
 ほとんどささやくような声で、悠遠が答える。彼らの会話は、周囲には木々のざわめき程度にしか聞こえないだろう。人とは異なる《影》の者にしか聞き取れない声である。
「手がかりはなし、か。まあ仕方ない、そろそろ動くとするか。今夜はちょっと派手に暴れるぞ」
 そう言うと同時に、英俊は地面を蹴った。一瞬遅れて悠遠も続く。あまりに素早い彼らの動きは、誰にも見咎められることはなかった。
 難なく外壁を越えた英俊は、宣言通りに行動した。外庭を巡回する衛士を、英俊は一人ずつ確実に仕留めていった。五人目を片づけ、床下に押し込めたところで、ついに悠遠は咎めた。
「英俊、無駄に技をふるうな。こんなところで時間を浪費してどうするんだ」
 しかし、対する反応はいつもより鈍い。
「……無駄に見えるか?」
「当たり前だ。いつものおまえなら、いちいち雑魚を相手になどしないだろう。今日はいったいどうしたんだ?」
 小声でささやきながら、悠遠は英俊の顔を仰ぎ見る。のぞき込んだその目は、冷たく笑っていた。
「いつもの俺、ね。おまえは俺の何を知っているんだ?」
 悠遠は無性に腹が立った。本当に、今日の英俊はどうしたのだろう。何が気に入らなくて、いちいちつりかかるような態度を示すのか。
「あのなあ、英俊。くだらない言い合いをしている場合じゃ――」
 英俊は悠遠より頭一つ高い。普段は見上げるしかないその顔が、すぐ目の前に迫っている。驚き、瞬きする暇もなかった。
「――……っ!?」
 悠遠はとっさに反応することができなかった。かわすことも、止めることも。
 薄く笑みを浮かべた唇が、悠遠の口を塞いでしまったのだ。
 その時間はさほど長くはなかっただろう。しかし悠遠はうまく息を継ぐこともできず、かといってはねのけることもできず、英俊が唇を離すまで凍りついたままだった。
「おっ、おまえ……、いきなり何を――」
 ようやく解放された悠遠は、荒く息を吐きながら英俊をにらみつけた。しかし、英俊はまったく悪びれた様子を見せない。
「不用意に顔を近づける方が悪い。今後の教訓にしておくんだな」
「ふっ、ふっざけるな……っ! 四六時中さかってるんじゃない、この色惚け男が――むぐっ」
 あまりの言いように声を荒立てようとした瞬間、悠遠の口は今度は大きな手で塞がれた。
「声が大きい」
「だだ誰のせいだと思って……っ」
 悠遠は力いっぱい反駁したいところだったが、近くに人の気配を感じたため、口をつぐむことにした。そしてそれをいいことに、英俊は悠遠の背後から羽交い締めにした格好のまま、物陰に身を隠した。

(今日はいったい何なんだ、この馬鹿男は!)

 悠遠は心中で毒づいたが、この状況では下手に身動きすることもできない。それがわかっているからこそ、英俊は平然と体を密着させているのだ。
 長身の英俊は、やや小柄な悠遠の体をすっぽりと覆ってしまう。長い両腕は首と腰に回され、悠遠が動かないようしっかりと固定されてしまった。お蔭で、耳元を撫でるかすかな吐息に寒気がしても、はねのけることすらできない。

(今度やったら、絶対に刺す……!)

 と、悠遠は物騒な誓いを立てた。
 そもそも今日は日中も、英俊は彼女を抱きかかえて屋根を飛び越えるなどという荒技をやってのけたのだ。今までまったく女扱いを受けたことがないだけに、急激な態度の変化に彼女は戸惑うばかりである。しかも悔しいことに、技倆も経験も英俊がはるかに上。たとえ腹を立てて抗ってみても、赤子の手をひねるように押さえ込まれてしまうだろう。
 ふっと、突然英俊が動いた。悠遠の体を抱き込んだままの体勢で、左手を音もなく空中にすべらせる。
 軽く手を振っただけの動作。傍目にはそうとしか映らないだろう。しかし次の瞬間、回廊にどさりと重い音が響いた。
「さあ、行くぞ」
 そう告げた時、英俊はすでに悠遠の体を放している。回廊に倒れたものを手早く床下に押しやって、彼は《影》の顔に戻った。

 ――この男。

 悠遠は、ぞっと寒気を覚えた。
 女の体を抱き込む傍ら、涼しい顔で技をふるう男。――自分は、この男を見くびっていたのではないだろうか。

(――おまえは俺の何を知っているんだ?)

 言われてみれば、確かに知らないことばかりだ。影鬼は互いのことを話さない。だがそれ以上に、英俊はあえて自分の本質を隠していたのだと改めて思う。
 まだ少し英俊の体温の残る体を震わせながら、悠遠はひどく遠くに感じられるその背を追った。



 その日、阮邸は都中の注目を浴びることとなった。大きな邸宅の落成時よりも、民衆の耳目を集めたに違いない。地上で最も高層の渡月宮よりも高く、黒煙と火炎が噴き上がったのである。
「少しやりすぎたか……このままだと自分が焼肉になりそうだな」
 ぼやきながらも、まあ、ここの主人は強火でなければ生焼けだろうが――などと、不謹慎な考えを悠遠は抱いた。
 阮邸への潜入に成功した後、英俊と悠遠は二手に分かれて行動していた。邸内の各所に火をつけて混乱を起こし、その隙に囚われたはずの二人を捜すのである。
 だが、この分では混乱を起こすどころか、邸が全焼してしまいそうだった。悠遠にとっては別にそれでも構わないが、火の回りが早ければ脱出も難しくなる。もう少し加減をしておくべきだった、と彼女は思った。
 本来なら火が回る前にもう少し捜索が進んでいたはずだったのだが、つい「寄り道」をしていたために、やや後れを取ってしまったのである。
「……あの豚爺め、相変わらず美味いものを食ってるな」
 邸の主人を罵りつつ頬張っているのは、二つの花巻だった。二つというのは、右手と左手にそれぞれ持って交互にかじっているからだ。なぜ悠遠がそんなものを口にしているかというと、彼女は潜入の最中に、またしても厨房に立ち寄り、そこの料理を拝借したからである。というのも、前回の「つまみ食い」の時になかなか美味だったので、今回もどうせなら再食したいと思っていたのだった。
 だが、こんな姿を英俊に見られたら、さすがに怒られるだろうと思い直し、彼女は瞬時にその花巻を胃袋に消してしまった。
 悠遠は常に腹を減らしている。たとえ大食した後でも、彼女は空腹を満たすことができなかった。だから、今回の「つまみ食い」も、決してふざけているわけではないのだ。何か食べなければ、彼女はまともに動くこともできない。――そんな特殊な体質だからこそ、実の親に売られてしまったわけだが。
 口の周りを手の甲で拭うと、彼女は顔の下半分を布で覆った。煙を吸い込まないためと、人に顔を見られないためである。しかし白昼堂々、覆面で邸内をうろつく姿は大いに怪しすぎるのだが、彼女に誰何する者は一人もいなかった。邸内の人間は、突如起こった火災に慌てふためき、不審人物とすれ違っても気にする余裕がなかったのである。財貨を山ほど抱える者、持ちきれずにばらまく者、それを拾い集めて懐にしまう者、子供の手を引く者、他人の子供を突き飛ばす者……それぞれ必死に立ち回りながら、住人たちは火勢から逃れようと駆けてゆく。
 次第に人の気配が消えていくに従って、悠遠は少し困った事態に陥った。
「まったく、この分だと二人がどこにいるかわからないな……」
 覆面の下のつぶやきにも、焦りが混じり始めていた。適当な人間を捕まえて虜囚の居場所を吐かせようにも、家人たちは逃げ散り、衛士たちは消火活動で右往左往しており、どうにも目的が達せられそうもない。このままでは煙にまかれて自分まで殉死してしまう。
 次第に増える煙に目を細めながら、きょろきょろと辺りを見回している内に、悠遠は驚くべきものと遭遇した。
「お、おまえ――」
 その先は、声にならない。あまりに想像を超えた事態に陥ると、人は思うように声を出せない生き物である。悠遠も例外ではなかった。
「お、おい、待て!」
 それはくるりと身を翻し、まるで誘うように回廊を曲がった。一瞬遅れて、悠遠も続く。
「おい、何でこんなところに――」
 言いかけたところで、悠遠は言葉を失った。
 その「影」は、彼女を手招きするような動作を見せると、そのまま跡形もなく立ち消えてしまったのだ。まるで、煙の中に溶けてしまったかのように。
「馬鹿な……」
 汗が背中につたうのを、悠遠は感じていた。確かに今、彼女の目の前で「影」は消え去ったのだ。
 悠遠はしばし呆然と立ちつくしていた。その彼女を現実に引き戻したのは、耳に馴染んだ呼び声だった。
「――悠遠!」
 はっと我に返り、振り向いた後ろには怪訝そうにのぞき込む英俊の姿があった。
「おい、どうした? 腹でも減ったか?」
「……違う」
 まさかすでに腹ごしらえを済ましてあるとも言えない。いや、それだけではなく。
「英俊……今、誰か見なかったか?」
「いや、ここの住人たちはみな金品抱えて逃げ散ったようだぞ。誰か逃げ残った奴でもいたのか?」
「……別に」
 悠遠の妙な歯切れの悪さに、英俊はいっそう訝しげな顔つきになった。眉をひそめて何か問おうとしたところで、しかし彼は別のことに気づいた。
「おっと、どうやらここが怪しそうだな」
 英俊はつぶやくと、そこから半歩下がった。彼らが立っていたのは、ことのほか厚い扉の前。その下の隙間から、火事とは別の煙が這い出ているのだ。彼らが火を放った位置から離れているのに、室内から煙が出てくるはずもない。大いに怪しむべきである。
 英俊はいまいち態度のおかしい悠遠を尻目に、ただちに行動に出た。閃火のような器用さを持たない彼は、剣先で錠を壊し、閂を上げて扉を開け放つ。
 その瞬間、外気を求めて一斉に噴き出した煙が、侵入者に襲いかかった。
 敏捷な英俊は直撃を受けるはずもなかったが、彼はよけるのとは逆の方向に跳んだ。
「何をしてる!?  死にたいのか!」
 彼は、動きの鈍い悠遠を抱きかかえたまま回廊を転がった。呆然としたままの彼女は、放っておけば煙の直撃を受けていただろう。それを英俊は庇ったのである。
 だが、英俊の腕に抱えられたままの彼女は、まだ本調子からは遠かった。
「……すまない」
 どこか別の方向を見やるような目をしたまま、悠遠は小さくつぶやいた。どうにもおかしな態度だが、今はそんなことに構っている場合ではない。英俊は悠遠の体を離すと、すぐさま立ち上がって室内に向かった。
「――怜悧! 閃火!」
 煙を吸い込まないよう注意しながら、彼は二人の名を呼んだ。果たして、中には求めていた姿があった。折り重なるように倒れた二人は、もはや意識を失っている。
「こいつか……」
 英俊が振り返った先には、煙を噴き出す甕があった。恐らくは、これが彼らを昏倒させた元凶なのだろう。蹴倒してやりたいところだが、今はそれどころではない。二人の両手両足を縛り上げていた縄を切り、早くこの場から連れ出さねば。
「悠遠、おまえは怜悧を運べ。俺一人で二人は担げないからな」
 少し遅れて室内に入ってきた悠遠に命じると、英俊は閃火の体を担ぎ上げた。悠遠もまた、無言のまま怜悧を運ぼうとする。ぐったりとして動かない怜悧の顔は血の気を失い、まるで陶器でできた人形のようだった。
 魂の離れた生気のない顔。煙の中に横たわるその姿を見ながら、悠遠は再び別の思念に捕らわれた。

 ――あれは、錯覚だったのだろうか。

 あれだけはっきり見えたものが、白昼夢などであるはずがない。ということは。

 ――あれは、本物の「影」だったのか。

 闇に潜む自分たち影鬼とは異なる。人の体から離れ、闇に遊ぶその影を、世はなべて「幽鬼」と呼ぶ――





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