第三章 落月


 その報告を聞き終えると、太后は朱唇に嬉しげな笑みを浮かべた。

「――阮が、はかなくも散ったそうじゃ。見ため通り骨のない男じゃったな」

 呪詛によって国家転覆を謀った大罪人、阮は少卿位を剥奪され、ただちに処刑された。下官が告げたのは、その一報である。すでに処分は確定していたので、これは単なる事実確認に他ならない。

 下官を下がらせた太后は、榻(ながいす)にしどけなくもたれながら、白い繊手を卓に伸ばした。人払いを済ませた居室は、焚きしめた甘い香と、食欲をそそるような匂いに満たされている。広い樫(かし)の卓には、山盛りの大皿が所狭しと並べられているのだ。食すのは太后一人であるにも関わらず。

 そして太后は、人一人の死を悼むどころか、その報告を受けても平然と羊肉の皿に手を伸ばした。血の滴りそうな肉に齧りつき、脂で光る唇を赤々とした舌で舐め上げる。その淫靡(いんび)にすら思える動作は、見る者に息を呑まさずにはいられなかった。

「…………母上」

 しばしためらった後、息子はようやく声を出した。自分の手下であった男が命を落としたにも関わらず、哀切も憐憫(れんびん)も欠片すらない母を咎める必要を感じたのだ。だが太后は聞き入れるどころか、その呼び方を諫めた。

「二人の時は母と呼ぶでないと言うたであろう?」

「……母上、阮少卿は忠義厚い臣下だったのではありませんか。それなのに、こうもたやすく処分するなど――」

 洪瀾はあえて繰り返し母と呼ぶ。そうすることで、少しでも話題を「私」から「公」に向けようと努めたのだ。だが、当の母后にはその思いも届かない。彼女は強い香気を放つ茘枝(れいし=ライチ)を頬張りながら、死んだ阮少卿をいっそう悪し様に罵ってみせる。

「あの男が忠義厚いはずがなかろう。厚いのは面の皮と腹の肉だけじゃ。妾に取り入って出世を願う小人に過ぎぬ」

「ですが……それでも味方だったのではありませんか。あまり官吏に死者が出ては、皆に不安を与えるのでは……」

「おぬしは優しいのう、洪瀾。じゃが、その優しさを人間風情に向ける必要はない」

 太后は目を細めてゆるやかに笑った。だがその笑みには、慈愛の片鱗すらもない。まるで獣が手頃な獲物を見つけた時のような、鋭さを備えていた。

 そして太后は冷たい微笑を浮かべたまま、卓上からおもむろに盃を持ち上げた。闇夜に浮かぶ望月のごとき銀盃に注がれているのは、深紅の色。鼻につくその生臭さは、紛れもなく生き血であった。

「これは、その厚い肉から搾り取った血じゃ。飽食の極みで脂臭いが、その分、滋養はありそうじゃの」

 それは、夜更けに鬼才が届けてきた献上品だった。誰のものとはいちいち明かさないが、ちょうど死体が一つできあがったのだから、その「原料」は想像に難くない。
 喉を鳴らして笑いながら、太后は盃の中身がよく見えるように天子に向けた。

 だが、天子はなるべく直視しないよう、視線をそらした。彼は嗅いだだけでも嘔吐感をもよおしてしまったのだが、太后はその少女のような所作を面白がりながら、血で満たされた銀盃を傾ける。

「おぞましいと思うておるじゃろう。無理もない。おぬしも人の子じゃからのう」

 目をそらす息子に、母后は意地悪く尋ねる。微笑する唇は、塗られた紅よりも赤く光っていた。彼女はその深紅から目を背ける彼ににじり寄り、耳元に熱い吐息を吹きかける。

「妾が地上で暮らすには、陽の気脈が必要じゃ。しかし、すでに陰気に満ちたおぬしからもらうには、ちと酷ゆえこうして陽血に頼るしかないのじゃ」

 飲み干した銀盃を、太后は床に転がした。盃の底にわずかに残っていた滴が、床板をぽつぽつと紅く染める。

「おぬしの父は妾を地上にとどめた。月の力が欲しいと申してな。妾はそのために月へ昇ることができなくなってしまったのじゃ」

 先帝はどうしても男児をもうけることができず、ついに禁忌を犯した。決して人間が触れてはならぬ月の巫女を求め、強引に手に入れてしまったのだ。

 当初は月の力が目的だっただろう。だが先帝は初めて巫女と対面した時、欲望をさらに激しく燃やした。その魔性の美しさゆえに。そうしてたちまち虜になった彼は、月の巫女に宿る陰気を貪り続け、ついには命を縮めることになったのだ。

 一方で、巫女は力を奪われた。完全に失ったわけではないが、人間の男によって穢された魂は、清めぬ限り月へと昇ることはできなくなってしまった。今なお地上にとどまり続けているのは、そのためだ。

「母上……月へ行かれてしまうのですか……?」

 いつもと違う太后の様子に、天子は不安げな顔で訊いた。先帝亡き後、玉座とともに「月の巫女」をも相続した天子は、もはや彼女なしでは命を保つことも難しい。陰気に餓える体の欲求は日々激しくなり、地上の月と交わることでようやく生きながらえているのだ。巫女が月に昇ってしまえば、その日に盈王朝は途絶えるだろう。

 すがるような目を向けられて、太后は天子の頬に白い繊手を伸ばした。顎から首筋にかけて愛しげに撫でながら、彼女は悠然と笑った。

「今はもうよい。おぬしがいれば……妾は他に欲しいものなどない」

「……嫦娥……様……」

 ついに母を御名で呼びながら、天子は膝から崩れ落ちた。嫦娥の唇はすぐ目の前に迫っている。その吐息には、茘枝の甘さと人血の生臭さが混じり合う。本来ならば目を背けなければならないのに、すでに幾度も禁忌を犯し続けた体は、今日もまた月の力を求めてやまない。

「おぬしだけが地上のよすがじゃ……洪瀾」

 嫦娥は、幼児のようにむしゃぶりつく我が子の頭を、強く胸に掻き抱いた。
 これが彼女を縛る鎖。月が地上にとどまるには、陽気を身に受ける必要がある。そのためには陽血を飲み干すことも辞さない。

 ――人の倫(みち)から外れているのは承知の上。

 我が子と通じ、人の血を貪る。決して許されることではないだろう。人であったなら。
 しかし、自分は人ではない。たとえ身も心も穢れようと、「月の巫女」であることは間違いないのだ。

 だから彼女は喰らい続ける。どれだけ道を踏み外そうとも、陽気を求め続ける。月に陥(お)ちた天子が、一日でも長く命脈を保つために。
 そのためならば、穢れた魂を地上にとどめおいても構わなかった。





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