第三章 落月


 床に入っていた悠遠は、夜半過ぎにふと目を覚ました。
 夢見が悪かったわけでも、怪しげな気配を感じたわけでもない。彼女が知覚したのは、大いなる空腹感と腹の虫の悲鳴だった。

「くっ……そんなに鳴くな。目が冴えるだろうが」

 自分の腹に言い聞かせてみても、まったく効果がない。仕方なく、悠遠はのそのそと起き出し、房舎をすべり出た。

 向かう先は、当然厨房である。彼女はこうして、空腹を満たすためにしょっちゅう盗み食いをしていたのだ。そのお蔭で、食材の消失が密かに「宮中の怪奇現象」として語られているのだが、当人はまったく知るよしもなかった。

 足音も立てずに悠遠は厨房への慣れた道を進む。こんな時ばかりは、気配を完全に断てる《影》の身がありがたい。しかも宮中は、特に大食の太后のために豊富な食材が取りそろえてあるので、食糧難に悩む心配もないのだ。
 いつものように厨房に向かった彼女だったが、今夜は普段と大いに違うことがあった。

「これは……?」

 つぶやき、悠遠は足を止めた。《影》ともなれば、五感は人の限界を超える。特に今、彼女が反応したのは、空腹をいっそう刺激する香気だった。

 それは実に甘美な誘惑だった。悠遠の鼻をくすぐった匂いは、いかにも作りたての料理から発せられるものだったのだ。

 たとえ怜悧ほどではなくても、空腹で嗅覚が常より過敏になっている悠遠は、様々な種類の料理が混じっていることを即座に判断していた。

 彼女が厨房よりも、その匂いの元を選んだのはもはや必然と言えた。何しろ、火を落とした夜中の厨房など、行ったところで野菜を生でかじるか、保存用の干し肉を失敬してくるしかない。それよりも、熱々の作りたての料理に惹かれるのは、もはや止めようのないことだった。

 そうして彼女が足取りも軽やかに向かった房は、まるでこれから豪勢な宴でも開かれるかのようだった。ゆうに二十人ほどは座れそうな広い食卓に、山盛りの大皿が所狭しと並べられている。ただ宴に足りないのは、座に着く人間の姿だけである。

 しかし、時はすでに夜半過ぎ。こんな遅い時刻に、しかも宮中で宴を開く者などいない。夜通し行われる喚月の宴なら別だが、それならとうに宴もたけなわになっているはずだ。こんなに閑散としていてはおかしい。

「凄い……」

 だが、悠遠にはもはや思考する力が残っていなかった。ほう、と感嘆の溜息をつく彼女の目は、今夜の月よりもまばゆく輝いていた。そして彼女は腹を満たすという、野生の動物とまったく変わらぬ衝動のままに動いた。

 まずはもっとも手近にあった、骨付きの羊肉にいきなりかぶりつく。しっかり火の通った肉は香菜で香りづけされていて、頬張ると強い香気が鼻に抜ける。それがいっそう食欲を刺激して、数拍のうちに平らげると、彼女は次の皿に手を伸ばした。

 まだ温かい花巻に向かって大口を開けたところで、だが彼女の動きは止められてしまった。
 ぽん、と肩に置かれたその手の温もりには覚えがある。いや、ありすぎる。大きく口を開けたまま振り返ると――そこには見たくもない顔があった。

「食が進んでいるようだな、悠遠」

 耳元でそうささやくのは、できれば決して会いたくない人物――兇星その人だった。

 兇星は、その秀麗な眉目に優美ともいえる笑みをたたえている。年頃の娘なら、ほとんどがその柔らかな微笑に蕩かされてしまうだろう。しかし、普通とは程遠い悠遠には、そんな感覚は起こらない。むしろ彼女は大いに身構えてしまう。

 悠遠は、兇星の目がいつも笑っていないことに気づいていた。そして、その視線を受け止めると、彼女は肉食獣に追いつめられた獲物のような気分を味わってしまうのだ。食べるのが信条の彼女にとって、取って食われるなどとんでもない話である。

「こ、これはおまえのだったのか……? 勝手に失敬して悪かった。まあ、その、後はゆっくり食べてくれ」

 冷汗が背中につたうのを感じながら、それだけ言うのが精一杯だった。こんな夜中に兇星と二人きりになるのだけは避けたい。
 しかし、兇星は簡単には帰してくれなかった。

「帰る必要はない。これはおまえのために用意したのだから」

 及び腰の悠遠の手首を、兇星はしっかりと握りしめていた。振り払おうとしても、できるものではない。それほど二人の力の差は開いていた。

 瞳の奥までじっとのぞき込んでくる兇星の目を見て、悠遠はようやく悟った。
 この宴はすべて罠。まかれた餌に、自分は愚かしくも釣り上げられてしまったのだ。

「前に言っただろう。夕餉におまえを招こうと。少し遅くなったが、存分に食していくがいい」

 握った手首を引っ張って、兇星は悠遠を半ば無理やり食卓に向かわせる。
 こうなっては、抵抗するだけ無駄だろう。せめてぎりぎりのところで踏みとどまるしかないと、悠遠は腹をくくった。

「……本当に、夕餉だけ、だからな!」

 だけ、を強調しておいて、悠遠はどかっと腰を下ろした。彼女の悪あがきをおかしげに見やって、兇星はゆっくりと笑む。

「わかっているとも」

 それが夕餉の始まりの合図だった。

 こうなっては食べなければ損、とばかりに悠遠は食事に専念することにした。

 漆塗りの高価な箸を握りしめ、まずは牛肉の香料煮に取りかかる。かなり香辛料がきいているが、辛さが手と口の動きを鈍らせることはない。合いの手に小龍包を口に放り込みながら、さらに白魚の香り揚げ、赤鶏の包み焼き、手羽先と蛤の玄米粥などを次々に腹に収めていった。

 それらの皿はそれぞれ六人前以上の量が盛られているのだが、どれも見事に空になってゆく。一息ついて海老と鮑の羮(あつもの)をすすっているところで、兇星はしみじみと言った。

「……いい食いっぷりだな」

「どうせ食い意地が張っていると言うんだろう」

 もしここに英俊あたりがいれば、「食い意地どころの話か」と突っ込んでいるだろうが、兇星はそのような受け答えはしなかった。

「いや、そうでなくては困る」

「はあ?」

 兇星の言葉を、悠遠は理解し損ねた。きょとんとした顔で見つめてくる彼女に、兇星はくすりと微笑を漏らす。

 ちょうどその時だった。夜風に乗って、楽の調べが室内まで運ばれてきたのは。
 静かな室内に、かすかな琴や笛の音が踊る。それを耳にして、悠遠は小さく息をついた。

「あちらはあちらで、また宴か……天子というのはいいご身分だな」

 こんな夜更けに管弦の宴を行える者は、この宮城では天子しかいない。音が聞こえてきただけで、その主が誰かすぐにわかるのだ。

「そうとも限らんぞ。女一人も好きに娶ることも叶わぬ身だ、天子などというものは」

「おまえは……天子を知っているのか?」

 こともなげに放った兇星の台詞は、悠遠の意表を突いた。天子は地上で最も尊貴な身。ゆえに、自分の思うままにふるまえるのだと彼女は思っていたのだ。

 目を丸くして聞き返す彼女に対し、兇星はさらに驚くべき言葉を告げる。

「まあ、そうだろうな。自分のことは自分でわかっているつもりだ」

「――!?」

 一瞬、何と言ったのか理解できなかった。あまりのことに、彼女はうっかり飲みかけの羮を気道に嚥下(えんげ)してしまって、激しくむせ返した。

「おまえ――おまえが、天子!? じ、じゃあ、あの宴は……!?」

 むせて涙目になりながら問う彼女に、兇星はやや意地の悪い答えを返す。

「今、渡月宮にいるのは紛れもなく天子だとも。天子の臨席せぬ月の宴はないからな」

「……どういうことだ?」

 要を得ない言葉に、悠遠はいっそう混乱する。渡月宮に天子がいるのなら、では天子を自称するこの男はいったい何だというのか。それとも、単に自分はからかわれただけなのだろうか。

 この兇星にしろ、英俊にしろ、周りの男どもはいつも自分をからかって喜んでいるようだと、悠遠は感じていた。ならば、今もそうなのだろうか。

 ちらりと兇星の様子を窺うと、どうにもこちらの反応を面白がっているように見えた。やはり馬鹿にされているのかと納得しかけたその時、ふと視界に影が差した。

 灯火は相変わらず燃えているので、どうやら月が雲に隠れたらしい。窓の外に視線を投じると、白々と光を降り注いでいた月が、厚い雲に覆われて見えなくなっていた。
 すると、よそ見をしていた悠遠に向けて、兇星は無言のまま手を伸ばしてきた。

「き、兇星――……」

 いったい何をする気かと、悠遠は思わず身構える。確かに「夕餉だけ」と念は押してあるが、兇星が口約束を守るとはとても思えない。怪しい行動に出たら、すぐにも身を翻して出て行こうと、彼女は半ば腰を浮かしかけた。

 だが、彼女の思うようなことは、何一つ起こらなかった。
 確かに兇星は手を伸ばした。そのまま行けば、目の前の少女に触れ、腕に収めることもできただろう。しかし、彼はそうしなかった。――できなかったのだ。

「……兇星……、おまえ……?」

 つぶやく声が震えるのを、止めることができない。彼女は、決して起こりえない光景を目にしていた。
 兇星の伸ばした手は、彼女の頬に触れることなく、その肌をすり抜けてしまったのだ。

 うっすら透けて見える指先を名残惜しそうに引っ込めると、兇星はゆっくりと口を開いた。

「――私は影だ。鏡によって裂かれた、天子の魂の片割れなのだ」

 そう告げる彼の唇には、どこか皮肉げな笑みが浮かんでいた。





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