OVER 1st mov.


「ありがとう、助かったわ。言い遅れたけど私の名前はイーリスというの」
 操縦室に入った二人に、彼女はそう名乗った。エトは先に船が喋るという事実を聞かされていたが、いまだに信じがたいとでもいうのか、せわしく眼球を動かし視線をさまよわせていた。そうなると当然、応対の役目はフィオに回ってくる。
「僕はフィオ、こいつがエトという」
 自分の名を呼ばれ、エトは慌てたように頭をぺこりと下げた。向けた方向はいまいち不明ではあるが。そんな動揺気味の少年を見て、フィオは溜息がちに声をかけた。
「エト、この中では与圧服の必要はないぞ。せめてヘルメットぐらい取って顔を見せたらどうだ」
「え? あ、そうか」
 不意を突かれたエトは、すぐさまヘルメットを外した。明るい、赤みがかった髪に覆われた、少年の顔が露になる。剥き出しになった相貌の中でくるくるとよく動く鳶色の瞳は、まだどこかに子供らしいあどけなさを残している。
 一方、顔見せを促したフィオはといえば、すでに大仰な与圧服を脱ぎ去った軽装になっていた。エトを呼び寄せる以前に、船内のエアシステムのロックを解除してあれば当然のことだろう。

 与圧服のない状態でも、彼の背丈はまだ高い。隣のエトが発育途上にあるため、並ぶと引き立つということもあるが、それでも平均男子の身長ははるかに上回る。そして細身の、しなやかな体躯を彩るのは黒髪と、さらに闇を濃くしたような漆黒の瞳だった。
「ところで、君はなぜこんなところに埋められていたんだ? すべてのシステムを切断して墓場に埋めるなんて、まるで本当の埋葬のようじゃないか」
 フィオの問いの後、短い沈黙が流れた。そして言いにくそうに、彼女は音声を発した。
「……そうよ、私は一度死んだも同然なのよ。だって私は目覚めるまでずっと人間だったんだもの!」
 その台詞にエトは目を見開き、フィオは眉を寄せた。彼らが何かを口にするより先に、彼女は再び言葉をついだ。
「この船のコードはMA‐802。火星で造られた派遣船よ。メインコンピュータのAIの名前はハルピュイア。そして私はこの船のただ一人のクルー――船長、と偉そうには言えないわね。操縦についてはほとんどハーピーに――ああ、私はそう呼んでたんだけどね――彼女の正確な頭脳に任せっきりだったのよ」
 そこでイーリスはいったん言葉を切った。普通の人間ならば一息ついた、というところだろう。

「私たちは火星の地下都市から木星域に派遣されるところだったの。火星を出て、衛星軌道に乗ったところまでは覚えてる。その後、睡眠カプセルで私が眠っている間に、ハーピーは私と自分の意識を交換させたの。私の身体を乗っ取って、逃亡したのよ!」
 それは、にわかには信じがたいことだった。予測可能な範囲をすっかり逸脱している出来事に、エトは呆けたように口をぱくぱくとさせることしかできなかった。
「コンピュータの暴走、か。考えられないことじゃない。だが、意識を交換させるなんて、そんなことが可能なのか? 脳移植もせずに意識のみを抽出して入れ換えるなんてことが――」
「可能なのよ」
 フィオの疑問を、イーリスは一蹴した。彼女の語気が少しばかり荒くなっていることにフィオは気づいた。
「地下都市の研究チームはね、かつての『火星王国』と呼ばれた時代の栄光を取り戻そうと躍起になってるわ。太陽系ナンバーワンの地位を奪回するために、政府の投資額も半端なものじゃないの。特に脳科学のほうは活発なようね。それで先日、脳内の自我構成についておおよそのところが解明されるに至ったの。その実験報告のデータを木星域まで運ぶのが私たちの役目だったってわけ。通信だと心もとなかったのね。他人に傍受されるわけにはいかないだろうし」
 通信距離が長ければ長いほど、外からの干渉を受けやすくなる。また、何かのはずみでデータの一部が損なわれないとも限らない。そこで火星の研究チームは派遣船を使うという次善策を採ったのだろう。派遣船というご大層な看板を掲げてはいるが、その実情は便利屋だ。ただし、養成学校から世間に排出される、公的な便利屋ではあるが。
「その重要なデータを万が一失った時のためにってハーピーの本体にダウンロードさせたのが誤りだったのよ。彼女はそれを解析して――そして、カプセルの中で彼女の管理下にある私と意識を交換させることが可能だという事実を知ってしまったの」

「そんな――ことが、本当に可能なのか?」
 フィオはまだ信じられないといった様子だった。対するイーリスは冷ややかに返す。
「まだ信じられないの? 意識の抽出というのは何も頭皮を剥いで大脳にメスを入れなくてもできることなのよ。電子枕から発する安眠促進のためのα波、あの周波数を変えて一定の圧力をかけ続ける。そして記憶データを送り込んで、そっくり入れ換えてしまうの。記憶と一緒に、自分の意識そのものをね」
 イーリスが得々と語るのはもちろん、自分自身の研究成果などではなく、配達予定の報告データの聞きかじりに過ぎない。だが、それでも彼女の切実な口ぶりには懐疑を挟む余地はなかった。
 フィオは軽く両手を掲げた「お手上げ」ポーズで彼女をなだめた。
「なるほど、君の話はわかったよ。そうして君は人間の肉体(からだ)の代わりに金属の船体(からだ)を持ったんだな。システムがすべて遮断されていたのは、そのAI――ハーピーが逃亡する際に施した処置だったのか。まあ、確かに造反を通報されたら厄介だしな」
 それでも、とフィオは思う。なぜそこまでしなければならないのだろう。機械が人間の身体を奪ってまで得る、その理由がわからない。機械の命令系統がショートし、暴走するというケースは――それほど多くはないが、まったくないわけでもない。だが、この話を聞く限り、それは暴走という言葉だけで片づけられるようなレベルではない。
 これは明らかに突発的なものではなく、明確な目的を持った――犯罪だ。

「それで、君はどうするんだ? イーリス。僕たちは刑事でも判事でもない。いくらここでAIを糾弾しようと、事態が好転するわけじゃないぞ」
「それはもちろんわかってるわ。実は、あなたたちにお願いしたいの。ハーピーを――私の姿をした彼女を探して、ここまで連れてきてほしいのよ」
 答えが返るまでに、一瞬の空白があった。
「――断る」
「フィオ!」
 思わず鋭い声を上げたのは、それまで沈黙していたエトだった。
「なんて冷たいこと言うんだよ! この人は俺たちに助けを求めてるんだぞ? それなのに、そんな言い方って――」
「じゃあ、おまえはできもしないことをできると嘘をつけというのか? 頭を冷やせ。僕たちは今、ほとんど身動きできない状況にある。下手に動けば、そのAIを見つけるより先に捕まってしまう。そもそもこの広い惑星の中で人一人見つけるなんて容易じゃない。もしかしたら火星にはすでにいないかもしれない。手がかりがまったくないんだ。それでもその、限りなく不可能に近い依頼を安請け合いしろと言うつもりか?」
 フィオの表情にはまったく変化がない。口調も苛立たしいというよりは、たしなめるようなものだ。真っ直ぐ見つめる漆黒の双眸に射貫かれて、エトは二の句が継げなくなった。
「そういうわけで、残念ながら君の要請に応えるわけにはいかない。一応、匿名で航宙管理局あたりに通報しておくから、あとは救助が来るのを待つといい」
 そう残して立ち去りかけたフィオに向かって、イーリスは叫んだ。慣れない体のため、彼女はつい音量調節を忘れた。室内マイクのすべてから発せられた大音量の機械音声は、船室をうち震わせるに充分だった。
「待って! あなたしか――あなたにしかできないのよ!」
 フィオの足が止まった。振り向かない彼の背に、彼女はなおも叫び続ける。
「あなたは私の呼びかけに応えてくれたわ。閉ざされた、深い暗闇の中で声も出せなくて――それでも私に気づいてくれたのは、あなたしかいなかったのよ!」

 ――助けて!

 あの叫び声がフィオの頭の中で反響する。それを払うかのように、彼は強く頭を振った。
「あれは偶然だ。ここは広い。今まで誰も気づかなかっただけのことだろう」
 なぜ聞こえてしまったのだろう。なぜ応えてしまったのだろう。
 耳を傾けなければよかったのに。初めから関わらなければ、こんなことにはならなかったのに。

 ――助けて。お願い。

 あの悲痛な叫び。無視することなどできるはずもなかった。閉ざされたはずのシステムを介さず意識に直接訴えかける、あの声。
 あれは――共鳴だ。

「僕たちは木星域からの逃亡者だ。廃物積載船(ガベージ・シップ)のコンテナに忍び込んでここにたどり着いた。破損したシャトルの部品を拾い集めて取り替えるつもりだったんだよ。僕たちは幾重にも罪を犯している。逃亡、密航、窃盗、他にも余罪を挙げ出したらきりがない。いくら君が切羽詰まっているにしても、正規の派遣船クルーが関わるような相手じゃないんだ」
 だから助けられない。口にこそ出さないものの、彼女は充分に言外の意味を読み取っただろう。だが、彼女は彼の予想以上に頑なだった。
「そんなことはどうでもいいの。あなたたちがどんな人間でも、たとえ殺人者であったって構わないのよ。ただ、私はどうしてもハーピーに会いたい。会って話をしなければならないのよ。だからお願い……彼女を見つけて……」
 無茶苦茶な論理としか言いようがない。会って話をすることと、フィオたちが彼女を捜索しなければならないことに何の関連があるというのだろうか。
 だが彼女は必死だった。それだけは冷静な――というより、冷徹なフィオにもわかった。

「――フィオ」
 咎めるような視線が、鳶色の瞳から放たれる。エトはいつも真っ直ぐだ。人が悲しめば己も悲しみ、同情はすぐさま義憤に変わる。順応能力が高い。他人と同調しやすい、それは一種の才能だ。あいにくと、フィオにはそのような能力が先天的に備わっていない。別段、それで不自由したことはないが、今は彼らに合わせるべきなのだろう。
「……わかったよ。じゃあ、こうしよう。僕たちはできる限りハーピーを探す。見つかるかどうかは別の問題だ。その代わり、一か月経ったらこの船で僕たちをどこか他の星に運んでほしい。彼女が見つかっても、見つからなくても」
「―― 一か月?」
 エトが眉をひそめて問い返す。心底呆れているのだろう。怒りすら通り越すほどに。
 行方不明の人間の捜索が、たかだか一か月で済むはずがない。しかも自分たち自体、人目を避ける密航者の立場だ。難行するに決まっている。
「一か月でも多いぐらいだ。この星で動き回るのは、それだけリスクが大きい。これでもかなり譲歩しているつもりだよ」
 どこがだ、とエトは思ったが口には出さなかった。火星という惑星が、どれだけ自分たちにとって危険なのか、彼にはわからない。そして判断する材料がない以上、フィオに対して表立って異論を唱えられようはずもなかった。
「あくまで取り引きなのね」
 一方的な契約だ。彼ら――特にフィオにしてみれば、彼女の船に固執しなくとも当初の予定通りに行動すれば済む。だが、彼女は彼らの力を借りなければ、自分一人では何一つできないのだ。相手のなけなしの慈悲にすがるよりなかった。
「わかったわ。あなたの提案に乗る。それでいいんでしょ?」
 イーリスの語調には少なからず憤慨が含まれていた。無理もないことではあるが。
「ああ、文句はない」
 短い、それがフィオの答えだった。

(――今さら、後には退けない)

 どこかに確信があった。恐らくこうなるであろうという、予感が。
 すべては動き始めてしまった。あの声を聞いた時――共鳴してしまった、あの瞬間に。


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